すべてを正しく行う
マタイによる福音書 3章15~21節
今日は顕現日の後の最初の日曜日。イエスさまが洗礼を受けられたことの記念日です。福音書はマタイからイエスさまが洗礼者ヨハネのところにやってきたときの様子が読まれます。
洗礼者ヨハネは「荒れ野で呼ばわる声」と預言された人でした。彼はすごく人気があったようで、「あの預言者」ではないかとも言われ、多くの人々が彼のもとへやってきました。しかし一方で、彼は「自分の後から来る人がその人だ」とも言っており、イエスが来ることを察していたのです。イエスが訪ねてきたとき、ヨハネは「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られたのですか」と言い、洗礼を授けるのを遠慮しようとします。しかしイエスは「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」と言って、ヨハネから洗礼を受けます。すると天が開けて神の霊が鳩のようにイエスの上に降ります。
イエスは「すべてを正しく行う」と言っていましたが、これはどういうことでしょうか。一つは、ヨハネが「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と告白したことを受けています。イエスが「聖霊と火で洗礼を授ける方」であることをヨハネが認識したということです。もう一つはイエスにとって洗礼を受けることが「人間として」の生を送る上で大切だったということです。「神として」であれば必要のないものでしたが、「人として」であれば必要なものだったのです。
人間は生きていくときに様々なことを経験します。例えば勉強でしたら、ひらがなやカタカナを習い、簡単な漢字を習い、だんだん難しいことを学んでいきます。数学なども最初は足し算引き算から学び始め、九九を覚えるのに苦労したりしながら、最終的には微分積分やらなんやらの難しい計算、もっとそれ以上の分野にたどり着く人もいます。基本的にはみんな「最初から正しい順序で」学んでいくものです。また、人と人とのコミュニケーションも、最初は言葉もなくすぐ手が出る子どもたちも、だんだん言葉によってやり取りするようになり、その使っている言葉もやり方も、だんだん難しくなっていくものです。もちろん、一気にできるようになる天才もいるのですが、たいていの場合は一つ一つ積み重ねて成長していくもので、一足飛びに成長するということはなかなかありません。
ただ一方で「正しい成長の仕方」にとらわれてしまうと大変です。「出発点」や「ざっくりした経由地」は同じですが、個々の成長の仕方は違うので、細かいところを「これが正しい」と言い始めてしまうとおかしなことになってしまいます。「すべてを正しく行う」とイエスが言ったのは「人が神に向かって生きる出発点」としての洗礼を最初に受けるのが正しい、ということであり、その後「こうしなくてはならない」とか「こういうことを経験しなくてはならない」というものではないのです。
みなさんは「洗礼」を受けて、クリスチャンとしての歩みを始めています。大人になってから受けた人、幼児洗礼の人、様々なケースがありますが、みなさんは自分が洗礼を受けた時のことを覚えていますか。自分は幼児洗礼だったため記憶はありませんが、自分のクリスチャンとしての出発点が「洗礼」にあったということは意識しています。「洗礼」がわたしたちにとっての大事な土台なのです。その土台の上に何を積み重ねるかは、わたしたちそれぞれに任されています。よく「クリスチャンだからこうだ」ということを言う人もいるのですが、そんなに簡単なものではありません。それよりも「どうやったらわたしたちはクリスチャンだと言えるのか」と自分で考えてみることが大切です。イエスも「洗礼」を受けて、「神の子」として歩み始めました。わたしたちもイエスの洗礼の記念日に、自分の土台に何をどう積み重ねるか、少し黙想してみましょう。