今を見つめて

2022年09月04日

ルカによる福音書 14章25~33節

 本日の福音書は「弟子の条件」とサブタイトルがつけられており、「わたしの弟子とは自分の命や親兄弟を憎み、自分の十字架を負ってわたしの後をついてくる者でなければならない」と、イエスが言う場面です。

 「親兄弟をはじめ、自分の命を憎む」。なかなか強い言葉ですよね。自分の一番身近な人たちを「憎め」と言われても、もともといがみ合っている場合はともかくとして、なかなか受け入れがたいことなのではないかと思います。ここでのポイントは「親兄弟や自分の命を憎むこと」とイエスの言う「自分の十字架」には関係があるということです。「自分の十字架を背負って」というと色々なことが思い浮かぶわけですが、イエスはここで「親兄弟との関係」を「十字架」と表現しているわけですね。

 さて、その「親兄弟との関係」を「十字架」として背負うわけですが、その「十字架」はいいものだけではないのは明白ですよね。よく雑誌などで「理想の親子関係」が語られたりしますし、うまくいかない家族関係のことを「機能不全家族」という言い方をすることもあります。しかし一方で、わたしは「すべてが理想的にうまくいっている家族」というのを見たことがありません。誰かがどこかでしんどい思いをしていることがあるのが実情だと思います。程度の差はあれ、今わたしたちが形成できる家族って「どこか機能不全」であり「理想的ではない」のです。理想的に振舞おうとしてもできないのがわたしたち人間だからであり、人間は欠点だらけの生き物だからでもあります。

 わたしたちが「憎む」べきなのは「実際の家族」ではなく、どこからか持ってきた「理想の家族」であるような気がします。「親兄弟との関係」という「十字架」を背負うのが難しいのは、わたしたちが「理想」を持っているからです。理想が邪魔をして、「あるべき姿」が邪魔をして、その人(家族)の今の状態を見ることができないからなのではないかと思います。「自分の命」もそうです。「理想」の自分は誰でも持っていますが、なかなかそうなることはできません。むしろ「理想」と「現実」のギャップに苦しむ人のほうが多いのではないでしょうか。確かに「理想の牧師」に「なることができない自分」に苦しめられることがよくあります。「捨てるべき」なのは「理想」であり「今の自分」を十字架として背負いながら歩むのが大切です。

 イエスはさらにここで2つの例を出して「腰を据えて」考えることを求めます。どちらのことにしても考えることはたくさんありますが、必要とされているのは「腰を据える」ことです。イエスはここで「自分の財産をことごとく捨て去る」ことを求めています。わたしたちにはたくさんの「財産」があります。それは実際の金銭だけではなく、わたしたちの持っている「理想」だったり「思い」だったりも含まれます。また「過去の実績」なんかも含まれると言えるでしょう。しかし、それらにこだわるあまり、「今」の自分が見えなくなることはよくあるのです。「昨日できたこと」が「今日できない」こともある。でも、過去を見て悔やんだり、落ち込んだりするのではなく、「今」「できない」という現実に目を向けて、その状況を背負って進むということです。もしかしたら「明日」はできるかもしれないし、できないかもしれない。でも「今」に目を向けることで、「今」わたしたちが為すべきことが見えてくるような気がします。イエスはいつも「今」目の前にあること、目の前にいる人に向かって生きていました。神さまがそう求めたからでもあります。わたしたちも、ちょっと先の「何か」に気を取られるのではなく、「理想」に目を向けるのではなく、「今ここ」に少し目を向けて、日々を生きていきたいと願っています。


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