再び従う

2022年05月01日

ヨハネによる福音書 21章1~14節

 今日の福音書も復活のイエスと弟子たちが出会う場面。今回はティベリアス湖畔でのことです。ペトロを先頭に漁に出た弟子たちですが、魚を獲ることができませんでした。しかしイエスに出会った後、その指示で網を下ろすとたくさん魚が獲れて、弟子たちはイエスであることに気がついた、という流れです。ティベリアス湖は「ガリラヤ湖」とも呼ばれる、ガリラヤ地方最大の湖で、たくさん魚が獲れるところです。かつてペトロたち4人が漁師をしていた場所でもあります。

 主の復活後、最初はエルサレムにとどまっていた弟子たちですが、イエスが指示したこともあり、彼らの故郷でもあるガリラヤに帰っています。ここに名前が出ている弟子たちはすべてガリラヤ出身でした。ここでシモン・ペトロが「わたしは漁に出る」と言いますが、これはとっても象徴的なことです。なぜなら彼らはイエスに「人間をとる漁師にしよう」と言われており、「網を捨てて」イエスに従ったのです。ところがここで「再び網を取る」わけです。イエスに従って「人間をとる漁師」として活動するのではなく「以前自分たちがしていた仕事に戻ろう」そう考えたということです。もっと言えば、神さまとの関わりを断って、以前の自分の日常生活に戻ろう、ということです。もしかして、ここでそのまま彼らが猟師に戻っていたら、今の教会は無かったかもしれませんね。

 しかし、ここでイエスが登場します。まだ弟子たちが気づく前ですが、イエスは弟子たちに対して「舟の右側に網を打ちなさい」と言いつけます。一晩中漁をしてオケラだったからなのか、もともと素直な人たちだったのかはわかりませんが、弟子たちは言われた通り網を打つと大量の魚が獲れたのです。ここで弟子たちは「主」が来られたということに気がつきました。イエスは日常に戻ろうとしていた弟子たちを「人間をとる漁師」として再び宣教の世界に引き戻したのです。そして、パンと魚を一緒に食べたのはまさに聖餐式の様子です。こうして弟子たちは再びイエスに見出されました。

 わたしたちも時々、ふとした拍子に教会に足が向かなくなることがあります。何となくこれまでの日常生活のほうが良かったのではないかと思ってしまうことがあるのです。特にコロナウイルス感染症によって礼拝がお休みすることになった後、礼拝を再開しても出席者が戻らないことがあったりしたそうです。しかしそんなときにイエスに「再び」出会うことで、教会にまた足を向けることがある。教会にとっては、信徒の皆さんがいつも、毎週教会に足を運んでくれることがいいに決まっているのですが、そんなこと言ってもそれぞれ事情もあるし、しばらくお休みしたほうがいいこともある。そんな時はしっかり休んでイエスとお話してみたほうがいいように思います。「足が向かない」ということもありますが、そんな時は仕方がないんです。みなさん一人一人にとって必要な時に、イエスがわたしたちのところに、わたしたちが気づかないような形で現れて、「舟の右側に網を打ちなさい」と言うのです。その時、わたしたちはイエスのところに引き戻されます。ですから、わたしはあまり心配していません。わたしたちにとって必要な時に、イエスはわたしたちを信仰の道に戻してくれるのです。そうやってイエスはいつもわたしたちのところにやってきてくれます。でも、わたしたちが人の勧めに素直であってのことかなと思います。だって、弟子たちもイエスだと知る前からイエスの勧めに従ったのです。彼らは「素人は黙ってろ」と言うこともできたはずです。なぜ従ったのかの理由はわからないけれどもそうしたのです。いつも人の言うことに簡単に従え、ということではありませんが、ときに人の勧めることに取り組んでみる、そんなことがあってもいいのかなと思います。もしかしたら、イエスがその人の後ろにいるかもしれないのですから。


無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう