最初に知ったのは

2022年04月17日

ルカによる福音書 24章1~10節

 イースターおめでとうございます。今日の福音書は、ルカによる福音書の復活の様子。朝、イエスの葬られた墓を見に行った婦人たちが空の墓を見つけて、そこで輝く衣を着た人に出会います。そしてイエスが復活したことを弟子たちに告げますが、使徒たちが信じようとしなかったという話です。

 どの福音書でもそうなのですが、最初の復活の報告は「墓が空だった」ということに始まります。これはとても奇妙なことです。「あるはずのものが『ない』」のですから。そしてそれを最初に知ったのが婦人たちだということは大切なことです。

 この時代の女性は「もの」扱いでした。男性の所有物として扱われることも多く、名前が残っていることも珍しいのです。でも聖書は実に多くの女性たちを主役として扱っています。イエスの母マリヤ、マグダラのマリヤ、プリスカなどはイエスや弟子たちとかかわりの多く合った女性たちです。また、旧約聖書にもルツやタマルなど、多くの女性の名前が残されています。ですが、当時の男性たち、使徒たちですら例外ではなく女性たちを下に見ていたからなのか、「墓が空でイエスがいなかった」と女性たちが報告したことを信じなかったと記されています。

 聖書は様々な出来事を「普段省みられない人たち(聖書が書かれた時代に)にスポットを当てる」形で強調します。例えばイエスの誕生の際に最初に知らされたのが、民として数えられない羊飼いたちであったり、異邦人である当方の博士たちだったりするわけです。ここでも、イエスの復活を最初に知ったのは、普段は表に出てこない女性たちであったわけです。クリスマスの出来事が「ユダヤ人だけではなく、すべての人々を救いに導く存在であるイエス」について語っているのであれば、この「女性たちが最初に報告した」ということにも意味があるはずです。

 一つは「神さまは弱いところ、『周辺』に現れる」ということです。女性たちを「弱い」と言ってしまうと誤解を招くかもしれませんが、この時代において男性より立場が弱かったのは事実でしょう。使徒たちのなかに女性の名前がないのもそうですね。しかし一方で、マグダラのマリヤをはじめとした婦人たちは、イエスの活動に大きな働きをなしています。存在が表に出ていないだけで、女性陣のサポートがなければイエスも使徒たちも活動が大変だったでしょう。でも、彼女たちは「脇に」置かれていたのです。でも神は、「中心」に置かれたところにではなく、「脇」に置かれたところにまずやってくるのです。「良い知らせ」=「福音」は「中心」ではなく「周辺」から始まるのです。もしかしたら誰もが目を背けるところにこそ、神さまがやってくるのかもしれません。きれいな教会などではなく、泥の中でもがく人のところに神さまはやってくるのです。それが「わたしは誰をも見捨てない」という神さまからの強いメッセージになるからです。わたしたち自身がどんな存在であっても、神さまはわたしたちすべての人を見捨てることはありません。男性であろうが、女性であろうが、それ以外であろうが関係ありません。大人でも、子どもでも、年寄りでも、若くても関係がありません。東京に住んでいようが、札幌に住んでいようが、釧路だろうが、根室だろうが、どこにいても同じです。そして、どんな人格であっても関係ないのです。神さまのほうを向いていれば、神さまがわたしたちをふさわしい方に用いてくださいます。神さまにとっては誰でも等しく神さまの子です。ですからわたしたちは前を向きましょう。神さまの子であることを誇りましょう。そして、神さまのほうを向いて進みましょう。何よりも、わたしたちの周辺に、神さまの目が届くように、神さまの愛が伝わるように働き続けましょう。イースター、おめでとうございます。主はみなさんと共におられます。


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