疑いを受け止める神
ヨハネによる福音書 20章19~31節
今日の福音書は「復活の主が現れる」と「トマスの疑い」です。復活から1週間、イエスが弟子たちが閉じこもっている家に現れ、それをトマスが疑います。そしてさらに1週間後にトマスの前にイエスが現れて、トマスはイエスを信じます。でも、トマスは散々疑った割には、イエスに会ってすぐに「わたしの主、わたしの神よ」とイエスを信じているのです。そこでイエスはトマスを叱るというよりたしなめる形で、「見ないで信じる者は幸いである」という言葉を残しています。疑うトマスをもイエスは受け止めているのですね。
これはある意味で当たり前のことだと思います。「疑うことを許さない」ということは、「失敗を許容しない」ということでもあります。疑うことを許さない為政者は「独裁者」になってしまいます。
そもそも教会の信仰は「信じる」と言った時に、一切を疑わせないような融通の利かないものではありません。もちろんそのように振舞う人、教える人がいるのは承知していますが、イエスがわたしたちに教えた信仰は一貫して「疑いながらでもついてきなさい」という信仰です。「できない」ことを許容する信仰なのです。そうでなくては、誰が教会に足を向けるでしょうか。ヨブ記において、神さまはヨブの疑いや投げかけを全て受け止めました。もし一切の疑いが許容されないのであれば、あれほど長くヨブが嘆いた文章を残しておくことなどしないでしょう。そして、ヨブはそれだけ疑ったのだから、反抗したのだから、滅ぼされてしまったに違いありません。しかし、彼の思いや嘆き、そして疑いは受け止められ、ヨブは生かされました。そしてそのことが聖書の一部として残されているのです。もちろん、疑い続ける人もいるでしょう。しかし、神さまの目は長いのです。神さまはその疑いをも受け止めてくださっています。そして、いつか答えを用意してくださるでしょう。神さまは、とても懐の深い存在です。
ですから、教会が何かをしようとする時、教会の中には疑問を持つ人もいます。でも、それを「持ってはいけない」と言う人がいるのなら、その人はいったい何の権威で言っているのでしょう。疑いを受け止める神さまのもとにいるはずが、いったいどんな厳しい神さまのもとにいるのでしょう。そして大事なことは、その「疑い」というのは口に出されるべきものだということです。「疑い」というのは、ただ心の中にとどめておくと、どんどん大きくなってしまうものです。「疑心暗鬼」というやつですね。でも、口に出してみるとあら不思議。思っていたよりも小さいものだったりします。人に向かって口に出せなくても、神さまに向かってなら口に出せるでしょう。そう、祈りの中で疑問や疑いを口に出してもいいのです。いや、むしろ積極的に向けるべきでしょう。そして、自分の周囲の人に聞くことができるのなら、聞いてみてもいいでしょう。教会の信仰というのは、そういった疑問を受け止めるようにできているのです。また逆に、そういった疑いを聞いて受け止めきれなかったとき、神さまに頼りましょう。また他の人に頼ってもいいのです。牧師もまたそのためにいますし、ほかの仲間たちもいるのです。神さまはあなたの持つその疑問を受け止めて、時に思いもしない人からその答えを返してくれます。
神さまを大いに疑いましょう。大丈夫、神さまは受け止めてくれます。そしてその答えが得られた時、わたしたちの信仰はますます強くされるでしょう。「疑う人がいても教会の中にいい」というのは大切なことです。そして神さまはいつでも、弱いわたしたちを受け止めてくれます。その神さまに頼って、これからの道を歩んでいきましょう。