あなたがたが耳にしたとき実現した

2022年01月23日

ルカによる福音書 4章14~21節

 今日の福音書はルカによる福音書から、イエスがナザレの会堂で教えた時の様子が読まれます。イザヤ書の巻物を読み、「この聖書の言葉はあなたがたが耳にしたとき実現した」とイエスは言います。

 「実現した」と言われたイザヤの言葉は「人々の、特に様々な抑圧のうちにある人々への解放」を告げています。そしてそれを行うのが「自分」、要するにこの文脈だとイエス自身であると言っているのですね。「なるほど、そうなのか」と「救い主であるイエス」を知っているわたしたちからすれば思えますが、何も知らなかった人々、この時初めて聞いた人々に、この言葉はどう聞こえたでしょうか。そして、今「イエスは知っているけど、救い主ってなんだよ」と思っている人たちにはどのように聞こえるでしょうか。また、初めて聞く人たちにはどのように聞こえるでしょうか。

 もちろんこれらのことが一気呵成に実現すれば、確かに主の恵みの年であり、「福音」=良き知らせ、と言えるのかもしれません。実際、イエスはこう言っていますが、現実の問題として「捕らわれた人」は今でもたくさんいるし、場所によっては増えてさえいる。視力の回復は難しく、今でも視力を失う人がいる。打ちひしがれている人もたくさん生まれている。教会の中ですらも生まれている。そんな状況なのにもかかわらず、これらの言葉は「実現した」というのはどういうことなのだろうと考えてしまいます。唯一何とかわかるのは「主の恵みの年」を告げ知らせるのはイエスなのだ、ということだけです。

 一方で、教会はこの言葉を実現するために様々なことをしてきたと言えます。古くは「救貧院」と呼ばれる施設を作ったり、近所の人々とささげられたものを分かち合ったりしました。そしてそれは今も様々な施設や活動として続いています。イエスの言葉は、局地的で、限定的かもしれないけれども、実際に主の恵みが人々に満ちるように耳にした人の中で働いています。

 わたしたちの「耳」からイエスの言葉が入ってきます。「黙読」に慣れているわたしたちは、「耳」から入る言葉になじみがないかもしれません。でも、礼拝の時に聖書を「朗読」するのは、古来より聖書の言葉を「聞く」ということが大切にされてきたからです。「声」というのは、その人から放たれると、飛んで行って人の耳から入り込み、その人を満たします。声に出して読まれた聖書の言葉、神さまの言葉は、人のところに飛んでいくのです。イエスの言葉は今も世界に響き続け、その言葉を耳にした人に満ち、その人はその言葉の実現に向けて動き出します。

 わたしたちも今、この言葉を耳にしました。いや、本当は前から耳にしているのです。その声に従いましょう。なにも難しいことではありません。自分の手の届く範囲で、目の届く範囲で、足の届く範囲で、できることをできるようにするだけです。わたしたちがしたちょっとした手助けが、誰かの解放につながっていくのです。主の恵みの年を広げていくのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたときに実現した」となるように、これからも歩み続けていきましょう。


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