お言葉ですから

2022年02月06日

 今日の福音書はイエスが4人の漁師を弟子にする話。漁師たちの船に乗せてもらって群衆を教えたイエスは、さらに漁師たちにそのまま漁をするように言いつけます。「まさか獲れないだろう」と思っていたシモン・ペトロたちでしたが「お言葉ですから」とやってみることにしました。ところが彼らの思いとは裏腹にたくさんの魚が獲れ、彼らはイエスに従うことになりました。

 漁師たちが「夜通し働いたのに」と思う気持ちはよくわかります。なぜなら彼らは専門家で、漁のことはよくわかっているからです。風や天候を見て、季節も見ながら"この時間ならこの辺で獲れるだろう"とあたりをつけて漁に出ているわけで、その蓄積された経験は誰にもまねできないものです。大体多くの物事は、ある程度の「経験」に裏付けられているものです。職人の世界なんて、まさにそうですね。そんな大ごとではなくても「仕事」をしている人はその経験を積んでいますから、何も知らない人に比べれば、対処できることの幅も大きいもの。「餅は餅屋」なんてことわざもありますね。わたしは料理が好きですが、料理なんてまさにその通り。やっぱり初めて作る料理と、何度も作っている料理では、何度も作っているものの方がアレンジも効くし、素早く作ることもできます。

 一方で「人間」を相手にする仕事って、もちろんある程度の経験も必要ですが、逆に経験が邪魔をしちゃうこともあります。もちろん長くその仕事に携わってきた人に適わない部分もあるのですが、新しく始めた人が急に成果を出すこともあります。学校の先生だったり、幼稚園や保育園だったり、そういった場所は新しい人と長年経験した人が入り混じりながら、いろいろな角度からアプローチして、ようやく何とかなる性質の仕事だなぁと思います。

 では「人間をとる漁師」という働き、つまり「教会の宣教」というのはどうでしょう。教会に長年通っていると「経験」から様々なことがわかってきます。「この時期になるとこうする」「こうしておいた方がいい」ということがわかってきます。牧師が何人も入れ替われば「この牧師はこういうタイプか」と思うこともあるでしょう。教会に新しく来た人に対してどうすればいいかというのもわかってくるでしょう。しかし一方で、長年同じ事ばかりしていると、どうしても教会の中の空気って変わらないものです。同じメンバーで毎年同じことをする。必ずしも悪いわけではないのですが、それでいながら「新しい人が来ない」と言うことも多い。残念ですが「本当に新しい人に来てほしいのだろうか」と思わないではありません。

 忘れないでいたいと思うのは、教会は「人間」に対する働きだということです。教会は本来、いろいろな人が訪ねてくることを前提としている場所です。そのためには「経験」も「若さ」も「落ち着き」も「元気さ」も、様々なものが必要とされています。いろいろな角度からアプローチする必要があって、それでもどうすることもできないという破れも必要とされています。突然口を出したイエスのように「こうしてみなさい」ということが突然新しく加わった誰かからもたらされることもあります。その時に「お言葉ですから」と従うのか、「素人は黙ってろ」と言うのかで、教会の進み方は大きく変わります。少なくとも「門前払い」ではなく、招き入れて考えてみるというのは必要なのではないかと思います。

 わたしたちに必要なのは「自分たちの経験」だけに固執することではなく、幅広くたくさんの人を迎え入れながら、自分たちも変わっていく道です。それが「人間をとる漁師」という教会の宣教の働きを生かしていく道なのです。

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