お返しできなくてもいい

2022年08月28日

ルカによる福音書 14章1,7~14節

 本日の福音書は「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というイエスの勧めです。「お返しができない人」を招きなさい、とイエスはいうのです。

 「お返し」というのは大事です。「なにかをしてもらったらお返ししたほうがいい」というのは、わたしたちの生活に根付いている習慣です。だからこそ「お返しができない」「しない」というのは「失礼にあたるのではないか」と結構深刻に考え込んでしまったりもします。そうやって気にしてしまうので「お返しが大変だから贈り物はいらない」と言われることも最近は増えたような気がします。「何かをしてもらっても返すことができない」というのは、妙な罪悪感として、わたしたちの心にのしかかることもありますから。

 教会は「敷居が高い」とよく言われます。「色々ルールとかがありそうだし、教会は清い人ばかりが行くところだから行きづらい。」「自分がその場にふさわしくないと感じる」というような意味合いで使われることが多いでしょうか。最近でこそこういう使い方をするようになりましたが、本来の「敷居が高い」という言葉の意味はちょっと違います。「不義理をしたから行きづらい」という意味なんです。

 繰り返し言っていることですが、教会は別に「清い人たちの集まり」というわけではありません。そうですね、「清くなりたい人の集まり」だとは言えるかと思います。ですから牧師も含めて「ちょっと困った人たちの集まり」ということはできると思います。「神さまの力で助けてもらって、なんとか生きてる人たちの集まり」でもあるでしょう。だからまぁ、教会には色々な人がいるし、それでいいんです。まぁ、トラブルもないわけではありませんが、だからこそ、わたしたちはみんな神さまに創られたものであることを覚えるのです。わたしたちの共通点は「神さまに創られ、神さまを信じている。(信じようとしている)」という点のみです。

 そして「神さまに生かされている」と感じるからこそ、わたしたちは「神さまにお返し」をしようとします。ところがまぁ、正直、そのことに対して「返しきれる」ものではありません。わたしの授かったこの「命」に対してですら返しきれるものではないのです。「神さまに直接返す」というのはなかなか難しいしどうやっていいかわからないことなので、わたしたちは自分の周りを「神さまの国」に少しずつ変えていくことで神さまに少しでも返そうとするのです。ところが「受けたものがあまりに大きい」と感じてしまうと、少しずつ「敷居が高く」なってしまうのかもしれませんね。「お返ししなくては」と躍起になってしまうあまりに道を逸れてしまうこともままあるからです。しかしイエスは言うのです。「お返しができない人を招きなさい」と。

 わたしたちもまた「返しきれていない」者です。「わたしはこれだけのことをしたのだから十分に返している」という人にいまだに出会ったことがありませんし、多分そんな人はいないだろうと思います。そして日曜日の礼拝ごとにまた「恵み」を受けて、どんどん受けたものが大きくなってしまうのです。でも、神さまはそんなわたしたちをこそ招いてくださっているのです。だからむしろ、わたしたちは「返しきれていませんよ」という状態でいいのだと思います。それでも、少しずつ、自分の周りに神さまの国を1ミリずつ実現することでよいのです。そしてそれが「できない」状態でもいいのです。色々な人たちの集まりである教会の中で、神さまに創られたことを感じながら、神さまの恵みをたくさん受けて、これからも歩み続けていきましょう。


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