しつこいのはいいことだ

2022年10月16日

ルカによる福音書 18章1~8a節

 今日の福音書は「やもめと裁判官」のたとえ話。神を畏れず人を人とも思わない裁判官のところにやもめがやってきて、裁判をしてくれるように頼みます。最初は相手にしていなかった裁判官ですが、ひっきりなしにやってくるので根負けして裁判を開いてやった、というたとえ話をイエスが語り、「神は、昼も夜も叫び続ける選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれるであろうか」とまとめています。

 わたしたちの普段の生活の中で「しつこく何かを言ったりやったりする」というのは、ともすれば嫌われたり、変に見られがちです。同じことを何度も言うのは認知症の代名詞のように言われることもありますし、仕事上の確認であれば「細かすぎる」などと言われることもあります。しかし一方で、こういった「しつこい」確認というのは、それだけ安全が脅かされる場面だから行われているのです。工場見学に行くと、あちこちに「安全確認」などの張り紙がありますし、作業手順にも細かく確認事項が入っています。でも、人間というのは慣れてくると「安全確認」を怠ったり、作業手順を省略したりして、最終的に事故につながってしまうことがよくあります。

 このたとえ話は「絶えず祈るべきであり、落胆してはならないことを教えるため」に語られたものです。やはり人間は、ある程度の行動の上で成果が出ないとあきらめてしまったり、「意味がない」と思ってしまったりするからです。ところが困ったことに、人間が何かを始める時、特に最初は簡単に上達するのですが、ある一定のレベルに達すると途端になかなか成長しなくなったり、成果が出にくくなったりするので、あきらめてしまいがちになってしまいます。学校の勉強やスポーツなどもそうですね。一方で自分の経験則ですが、少しずつでも続けることで、自分の血肉になって行く、ゆっくりでも成果が出るということはよくあるように思います。わたしも子どものころ、運動が苦手で、筋力も低く、喘息もあってすぐに息が切れたり、力がなかなかつかなかったりして、そのことが非常なコンプレックスでした。しかし神学校に行った時、運動不足で太っちゃったこともあるのですが、同級生や先輩たちと無理のない範囲の運動を始めたんですね。ランニングする先輩たちにぜんぜんついていけなかったのですが、待っててくれたりするのであきらめずに続けていたら、少しずつ体質が改善されていったんです。「ああ、この体も30近くなってるけど意外に動くもんだなぁ」と思ったことを覚えています。また勉強も、なぜあんなに頑張れたのかはわかりませんが、苦手だった語学も、ギリシャ語やヘブライ語に食らいついていくことができたのは自分でもびっくりしました。何事も「あきらめずにしつこくする」というのが肝心なのだろうと強く感じたことです。こういった自分の体のこと、脳みそのことのほかに、やはり「祈り」も、続けることが肝心なのだろうと思います。朝の祈りの習慣、食前の感謝の祈り、様々な場面でわたしたちには祈る機会が与えられています。体や頭のことなら、少しずつ成果が出ているのが見えても、「祈り」による心のことって、なかなか成果が見えないのであきらめてしまいがちになりますが、そうではないのです。パッと目に見える成果だけではなくて、自分の目から見えなくても周囲から見えることもあります。何年も経ってみると、少しずつ変わっていることがあります。確かに一人でしていると「空しい」と感じることもあります。そのためにこの「祈りの家」がここに立っています。日曜ごとに集まり、信仰の仲間たちと励まし合うことで、わたしたちは祈りを続けることができます。祈りの習慣をわたしたちの中にしっかりと根付かせ、本当に「しつこい」と神さまに思われるくらいの祈りを続けましょう。大丈夫、このたとえ話にもありますが、神さまは絶対に邪険にしたりしませんから。


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