そんなことがあってはなりません
ルカによる福音書 20章9~19節
今週の福音書は「ぶどう園と農夫たち」のたとえ。ぶどう園の主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ている間、農夫たちがぶどう園を自分たちのものにしようと画策し、最後には息子まで殺してしまう、そんな話です。ぶどう園は神の国、農夫たちは祭司長や律法学者、僕(しもべ)や息子は預言者たちと当てはめていくのが、一般的な解釈でしょうか。だからこそ「イエスが自分たちにあてつけてこのたとえを話した」と気がついたのであり、イエスをとらえようとまでしたのです。そして民衆はこの話を聞いたとき「そんなことがあってはなりません」と言います。わたしたちもそれは同じでしょう。確かに良くない話だなぁと思いますから。
教会は一昔前、いや今でも若干そうですが、今わたしたちが生きている世界のことを「教会」と「外の世界」という捉え方をします。そして「教会の外に救いなし」というのですね。教会は救いの方舟であり、ここにいれば大丈夫なのだと考えるのです。無意識のうちにそのような捉え方をしているキリスト者も多いでしょう。しかし、よくよく考えてみてください。教会の中と外、何の違いがあるのでしょうか。教会の外を「社会」と言ったりしますが、教会の中も社会で、教会の外で起こっている問題は教会の中でも起こっているはずなんです。みんなが「なかったこと」にしているだけです。教会の外に社会があるのではなく、教会は社会の中にあるのです。その中の一部だというだけです。教会は社会から切り離された楽園などではないのです。もし今、イエスがここにいたなら、多分教会の中にはいないのではないかとわたしはよく思います。
こう考えていくと、今日のたとえ話は他人ごとではありません。わたしたちこそ「農夫たち」になってしまっているかもしれないのです。神さまの遣わした人たちを殺してしまっているかもしれないのです。つまり、教会が神さまの国を管理しているつもりになって、そこに人を近づけないでいるかもしれないのです。わたしたちこそが神さまを求める人を遠ざけてしまっているかもしれないのです。「そんなことがあってはなりません」と、という時、自分たちが本当にそうしていないのかと考えてみる必要があると思います。少なくとも教会はかつてそうしてきたのですし。
「そんなことはない」と思うかもしれません。いつでも教会の扉は開いて招かれていると言うかもしれません。でも、教会の入り口は意外と狭かったりするんです。教会が入りづらいところならば、誰が神さまのことを周りの人に伝えるのでしょう。神さまはイエスを通して、多くの人が神さまを知ることができるようにしました。でも、それは祭司長たちや律法学者たちには受け入れにくいことで、だからこそイエスは十字架につけられる結果になってしまいました。もしイエスが現代に来たならば、きっと教会に来るのではなく、救いを求めている人のところに直接行くのではないかと思います。わたしたちがイエスと出会いたいならば、わたしたちもまたそこに向かって出ていくべきではないでしょうか。「そんなことがあってはなりません」という前に、できることがあるのではないかと思います。
でも、難しく考えることはありません。わたしたちはするべきことをすればよいのです。すなわち、わたしたちの両手の届く範囲で、神さまの国を実践するだけです。周囲の困っている人に手を貸すことから始めることです。そして、神さまを求める人に祈りを伝えることです。そうすることで、より多くの人に、神さまの救いをもたらすことができます。こうやって神さまに仕えていくのです。