とりあえずやってみよう

2022年08月21日

ルカによる福音書 13章22~30節

 本日の福音書は「狭い戸口から入りなさい」というイエスの勧めです。戸が閉められてしまってからでは遅いのだ、とイエスは言います。

 「大きい戸口」と「狭い戸口」があるのかと思いきや、今日の部分だと「入ろうとしても入れない人が多い」とか「戸が閉められる」など、そもそも「入口自体が狭いんだ」ということだけが強調されているようです。ということは「苦労しよう」というような話ではないのだろうと思います。むしろ「やりなさい」ということなのでしょう。

 物事を始めるとき、なかなか腰が上がらないことがあります。気が向かないことがあります。勧められても「まだいいよ」と断ることも結構あります。ところが、いざやってみようとするとその時には遅くて、もう締め切りが来てしまっていたり、手に入らないものであったりすることもよくあります。神学書などのマイナーなジャンルの本は、見つけた時に買っておかないとまったく手に入らないということがよくあります。だったらすぐに動けばいいようなものなのですが、なかなかそうできないものです。

 聖書にもたくさんの勧めがあります。でも、その言葉通りに行うことができる人って少ないように思います。「そりゃ数が多いし、全部できるわけない」と言いたくもなりますが、イエスさまが言っているのはそういうことではありません。「とりあえず何でもいいからやってみなさい」「できなくてもいいから始めてみなさい」ということのように思います。神さまは別に「完璧超人」と求めているわけではないからです。わたしたちができないことがありながらも、神さまのために働こうとすることを求めておられるのです。「できるかできないか」ではなく「やるかやらないか」なのです。

 脳科学者によると、人間というのは「やる気」が出てから動くのではなく、動くから「やる気」が出てくるのだそうです。泣くから悲しくなるし、笑うから楽しくなる、なんか逆のように聞こえますが、体の中の反応としてはそうなのだということです。わたしたちは何かを始めようとするとき、結構「○○だからできない」と「できない言い訳」を探していることがよくあります。ところが、それにもかかわらず始めると、「あれ? なんかできた」となることが多いのです。

 神の国を実現しようとするとき、なんか壮大なので「自分の力じゃ大したことはできない」とか「意味がない」と考えてしまいがちです。でもそうじゃないのです。入り口は狭くても、動いてみるとできる。むしろ、わたしたち一人一人の力は小さくても、ほんの0.1ミリでも神の国が前進すればそれでいいのです。ですから、わたしたちの手の届く範囲、直径3メートルくらいの範囲から神の国を始めてみればいいのだと思います。自分と、自分の家族から始めて、それを少しずつ周囲に広げていく。自分の身の回りから始めて、自分の家と周辺、その周り、と進んでいきます。

 「神の国」というのは、教えを聞いただけでできるものではありません。それは実現されるものだからです。「行う」ことがなければ意味がないのです。だから「ちょっと」だけでも進むことが大切なのだと思います。「とりあえず神の国を進めてみよう」ということを頭に片隅において、日々の生活をしていきましょう。


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