わたしの後から来られる方

2024年12月29日

ヨハネによる福音書 1章1~18節

クリスマスが終わり、今週はまだクリスマスのお祝いの中にあります。イエス誕生の後のしばしの休みをマリアとヨセフも過ごしていたのでしょうか。福音書はヨハネによる福音書の冒頭部分が、クリスマスの時よりも少し長く読まれます。クリスマスの日課から増えた部分には洗礼者ヨハネについて記されており、洗礼者ヨハネはイエスについて「わたしの後から来られる方は、わたしにまさっている。わたしよりも先におられたからである」と語っています。しかし、この言葉はよくわかりません。ルカによる福音書によれば、洗礼者ヨハネはイエスの親せきで、半年ほど前に生まれているはずです。だから「先にいる」のはヨハネのほうですよね。それが「イエスのほうが先」と言うのですから、どうなっているのでしょう。しかも「わたしの後から来られる方」とも言っているわけで、ますます混乱してしまいますね。

これはこのヨハネによる福音書の冒頭全部を考えてみると良くわかります。「初めに言があった」と始まるのですが、よく読み解いてみるとこの「言」がイエスであると、福音書を書いたヨハネ(以下福音記者ヨハネ)は考えていることがわかります。「言」というのは「神の言葉」です。世界は「光あれ」という「言」によって創造されました。そうして創造された世界に「言」は降り立ちますが、「世は言を認めなかった」と記されています。イエスのことを指しているのか、また「預「言」者」たちのことをもさしているのかはよくわかりませんが「神の言葉を世界は拒否した」「民は拒否した」のだということです。だからこそ「言」はイエスの姿としてやってきた、それに「光について証しをする」役割を与えられた洗礼者ヨハネが応じて、先ほどの言葉となったということなのです。「わたしより先におられた」というのは、「イエスが言だから」であり、「わたしより後に来られる方」というのは「生まれたのは自分が先」というわけです。このようにして洗礼者ヨハネが取り上げられるというのは、福音記者ヨハネにとって、そしてこの福音書が届けられた地域によって洗礼者ヨハネが重要な人物であったことを示しています。聖書にもある通り、洗礼者ヨハネのことを「メシアだ」と言っていた人もいたでしょう。だからこそここで洗礼者ヨハネとイエスとの関係をきちんと論じておくことが必要だったのでしょう。

当人たちにとってはそんなことは今更論じるまでもないことです。聖書に残されている発言を見てもその通りです。けれども周囲の人にとってはそうはいきません。だからはっきりと言うのです。教会のことを教えるときもそうなのですが、自分たちにとってはよくわかっていることでも、はっきりと言わないと伝わらないことってよくあります。しかもイエスのように、一度言うだけで伝わるのなら苦労はしません。なかなか伝わらないので、何度も言い換えたり、違う角度から言ってみたり、行動で示してみたりとたくさんのやり方をする必要があります。

洗礼者ヨハネはイエスのことを「わたしの後から来られる方」と言っていました。この言葉はわたしたちにとっても大切です。なぜならわたしたちの後にたくさんの人が続いてくれないと、この大切な教えが残らなくなってしまうからです。だから「先にいた者」としてしっかり導くことが大切です。洗礼者ヨハネも最初はイエスに洗礼を授け、導きました。しかし一方で「後から来られる方」のほうがまさっていることもよくあります。「先にいたから」と、立ちはだかるのではなく、自分は「追い越していかれる」ことを受け入れることもまた大切です。誰かが後から群れに加わった時、導いて、一緒にいて、そして追い越されながら、周りに主を伝えることを大切にしていきましょう。


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