通り抜けて立ち去った
ルカによる福音書 4章21~32節
今週の福音書は先週の続き。故郷ナザレの会堂で教え始めたイエスに対しての、村人たちの反応です。「あの人はヨセフの子ではないか」とイエスに向かった口々に言います。イエスはそれに対して「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と言い放ち、怒った村人たちに詰め寄られますが、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去ります。
先週の福音書で語られたイエスの言葉に対して、ナザレの人々は驚くと同時に、「ヨセフの息子である」ということを強調します。「わたしたちは彼のことをよく知っているんだよ」と言わんばかりですね。
地元出身の有名人にあやかるというのは、現代でもよくある話です。一方で、あやかられた本人も了承の上ならばよいのでしょうが、得てしてそのようになっていない場合も多く「一方的にその土地の人が誇っているだけ」なんてこともあるでしょう。「地元だからよくしてくれるに違いない」という思いもどこかで持っているかもしれません。当人が好きでそのようにする場合と、周囲の人がそれを期待するのとでは、大きく違いがあります。イエスもどうやらそんなにおいをかぎ取ったようで、「郷里のここでもしてくれというに違いない」と言っています。そのイエスの指摘に対して、思うところがないのであれば、怒ったりはしないでしょうが、ナザレの村の人々はイエスを崖の方まで追い詰めるほどの怒りを露わにします。語るに落ちたり、というところでしょうか。人に対してであればまだいいかもしれません。しかしイエスは違います。神の子であるわけですね。神さまに対して「あの神さまはこの土地のだから」と特別扱いを要求するのはちょっと違うのではないかという気がします。
でも、わたしたちは時々、神さまに対して「自分たちのことを特別に扱ってほしい」という望みを抱くこともあるのではないでしょうか。様々な教会の発行している印刷物の中には「クリスチャンは救われる。それ以外は救われない」という風に書いてあるものがあります。「それが当たり前」と思ってしまいがちですが、本当にそうでしょうか。神さまはすべての人を救う神さまであり、神さまが救いたいと思うときに救うものではなかったでしょうか。そして、それは「現時点で」そうであるかどうかではなく、先のことも含まれているはずなのです。「現時点で」クリスチャンであるかないかと、この先にどうであるかは違います。わたしたちにはわからないことですから、そのことは忘れないでいたいものです。イエスさまはわたしたちを間違いなくお救いくださるし、わたしたちの周りにいる沢山の人たちのこともお救いになられるのです。こうやって、イエスを、神さまを「自分たちのだ」と言ってしまうというのは少し危険だとわたしは思います。
わたしたちの教会がイエスさまを「自分のだ」と主張するとき、ナザレの人々の間を通り抜けて立ち去ったように、イエスさまはわたしたちの間を通り抜けて出かけていくでしょう。どこへ行くのかと言えば、間違いなくその時イエスさまの助けを必要としている人の所へです。神さまはわたしたちが行くよりも先に行っています。わたしたちはどうすればいいかと言えば、そこへわたしたちも行って、神さまのために働くことではないでしょうか。難しく考えることはありません。わたしたちが働くとき、特に誰かのために働くとき、そこに神さまがともにいらっしゃる、そう考えればよいのです。自分たちだけで留まるのではなく、誰かのところに行く、それがイエスの示す道なのです。