主の創造された世界へ
ルカによる福音書 9章28~36節
今日は「主イエス変容の日」。この祝日は固定祝日なので、通常の「特定」の主日に優先します。聖書は必ず共観福音書から山でイエスの姿が変わる場面が読まれます。どの福音書でも話の流れは同じで、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登ったイエスの姿が、祈っているうちに白く輝く姿に変わり、モーセとエリヤと一緒に語りあいます。そこでペトロは「幕屋を建てましょう」と言いますが、雲が現れ、天から声がするとイエスしか残っていなかった、という話です。
この話は通常、モーセ(律法)からエリヤ(預言者)と受け継がれてきたものがイエス(福音)に受け継がれることの象徴だと言われます。イエスの生きていたころは旧約聖書のことを「律法と預言者」と呼んでいました。ですからイエスこそがそれを受け継ぎ、人々に新しい生き方を教えるのです。「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」という言葉はそのことを指しています。キリスト者の生き方は「イエスに倣うこと」と言います。わたしたちはイエスに聞き、その生き方を学びます。必ずしもうまくできるわけではありませんが、やってみようとするのです。
また、ここでペトロが「ここに幕屋を建てましょう」と言います。「幕屋」というのは要するにテントのことですが、この場合は少し違います。イスラエルにとって「幕屋」は「移動式の神殿」なんです。かつて出エジプトのころユダヤの地に向かう途中、野営場所を決めるとまず律法の書かれた板の入った箱を安置し、その幕屋を中心に自分たちも野営したのです。「幕屋」は「神殿」であり、自分たちの中心に「神の栄光」を置くためのものです。「幕屋」は仮に設置するものですが、後にイスラエルが定住すると「幕屋」は「神殿」に変わり、そこを中心として国を作ってきました。しかし「幕屋」であればまだ移動可能だったのに、「神殿」に変わったことにより完全に場所が固定されてしまったと言えます。イエスの時はまだ「神殿」は残っていましたが、後に打ち壊されてしまいます。「神」のいる場所が「固まって」しまうと、神の力はのびのびと働けなくなるのだろうかと思うことがあります。ペトロは見えた「神の栄光」を自分たちの周りにとどめておきたかったのでしょう。その気持ちはよくわかりますが、神の働きは一か所に留まるものではなくて、外に向かってどんどん出ていくものなので、「幕屋」を建てて固定してしまってはせっかくイエスがこの世に来たことが台無しになってしまいます。
イエスはわたしたちの間に宿られました。わたしたちの間を歩き、世界中をのびのびと歩き回りました。「教会」は世界にたくさんありますが、「教会」の中に住むのではなく、その辺を歩き回るのです。ですからイエスは活動の拠点を「神殿」に置かなかったのです。いや、置く必要を感じなかったのでしょう。そもそもこの「世界」は神が創造されたものであり、この世界に、たとえ人間が行ったことがなかったとしても、神の足跡の残されていない場所は一つもないのです。そのことを人間は時々忘れてしまいます。「信仰」とは、「教会の中」に固定されているのではなく、そこから出て、世界中にある神の足跡をたどりながら、そこで出会った人々の中で生きることです。そうすることでイエスが、神の力が世界中に働くのです。聖餐式の最後に「ハレルヤ、主と共に行きましょう」と唱和します。「ハレルヤ!」かどうかはともかくとして、「主と共に、わたしたちは教会の扉から世界に派遣されていく」「福音を携えて出発する」ということです。未知の世界のような気がしますが、そうではありません。主が先だって歩かれた世界です。変容の主の栄光が、わたしたちを守ってくれます。主に従って歩んでいきましょう。