今大事なこと

2022年07月24日

ルカによる福音書 11章1~13節

 今日の福音書は、イエスが弟子たちに「主の祈り」を教える場面です。そして、祈るときには「執拗に頼みなさい」と言っています。

 「主の祈り」はわたしたちキリスト者にとってとても大切なお祈りです。でも、主の祈りを詳しく見ていくと、教会で「大事だ」とされていることから少し欠けている所があるように思うのです。実は、主の祈りの中には「感謝」の言葉がないのです。

 聖パウロは聖書の中で「どんなことにも感謝しなさい」と言っています。教会でも特に自由にお祈りするとき「○○でありがとうございます」と感謝の言葉を言うことが多いでしょうし、普段からもあらゆるものに感謝を伝えるのが普通です。でも、一番大事とされている「主の祈り」に感謝の言葉がないのです。イエスが「感謝しない」人だったわけではありません。最後の晩餐の時、パンと杯をとって、感謝の祈りをささげています。ではなぜ、イエスは「主の祈り」に感謝の言葉を含めなかったのでしょう。

 「主の祈り」に含まれているのは、ざっくりと言うと「天の国が来ますように」ということ、「毎日の糧が与えられるように」ということ、「平穏に過ごせますように」ということです。要するに「毎日の暮らし」が安全に、そして安心して続けられるように、ということでしょう。この祈りは「弟子たちに」語られたものですが、この祈りを教えられて普段唱える人たちは、毎日の食事にも事欠き、安心安全な暮らしがなく、毎日苦労して過ごしている人たちであったということです。

 「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。わたしたち人間は、昔から「食事、着る物、住むところ」があって初めて、周囲の人に目を向けることができる生き物です。食べるものがなくていつも汲々としている人に対して「周囲に感謝しましょう」と説いても、それは空虚な言葉です。「じゃあ食べ物をくれよ」と返されてしまうでしょう。イエスがいつも話を聞かせていた人々は、毎日の食べ物にも事欠く状態であった。彼らにとって「今大事なこと」は、「食べ物が毎日与えられるように」という祈りであり、「毎日平穏に過ごせるように」という祈りであったのだと思います。それだけ日々の生活が苦しかったのです。「感謝」というのは、その一歩先、満たされることによって「感謝」が出てくるのです。だからイエスは主の祈りに「感謝」を入れなかったのではないかと思います。

 教会の宣教もこういった点に着目するべきなのかなと思います。毎日の生活が苦しい状況で、「感謝して奉仕しましょう」と言っても、なかなかそれは難しいでしょう。「無理」と言ってもいいと思います。その場合は「まず毎日の生活を優先してください」とわたしは伝えるようにしています。信仰によって、行いによって、自分の生活が維持できなくなってしまうのなら、そしてそれを要求するのなら、教会はカルト宗教になってしまいます。だからまず「今大事なこと」を優先してほしいと思います。

こう言うと時々、「毎日食べるものをください」「毎日平穏に過ごせますように」と執拗に願ってもいいのか、よくないんじゃないかと心配になる方がいますが、そんなことはありません。イエスも「求めなさい、そうすれば与えられる」と言っています。天の父は求める者に聖霊を与えるように、毎日の生活を安心なものにしてくれます。祈るのはまず「今大事なこと」です。「主の祈り」を唱えましょう。そしてその上で、もし余裕があってできるようなら「感謝」をささげましょう。


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