今日も明日も明後日も
ルカによる福音書 13章31~35節
みなさんは何か続けていることがありますか。そして、それに対して「止めた方がいいんじゃないか」と言われたことはありますか。今日の福音書で「ヘロデがあなたを殺そうとしている」と言ってくるファリサイ派の人に対してイエスは「今日も明日も三日目も、わたしは活動を続ける」と答えています。これは単純に「止めたらいいんじゃないか」ということよりも、ファリサイ派の人たちにとって、イエスが活動をすることが都合が悪かったからであり、イエスのためを思って言ったというよりは、自分たちのためだったようです。
誰かが何かを続けていることに対して「無駄だよ」とか「意味ないよ」と言ってくる人がいます。もちろん善意で言っている場合も多くあるのでしょうけれども、そうでないこともよくあります。今回のファリサイ派のように自分の利益のために言う人もいます。「○○さんがあなたのことをこう言ってたよ」とか「こういう意見もあるよ」と言うのは大概その人の意見だったりします。自分の意見だとはっきり言えばいいのになと思わないではありません。でも、結構わたしたちはそういった人の話を聞いてしまったり、気にしてしまったりするのです。本当は自分の信じるところに従って、周りに迷惑がかからないなら何を続けたっていいのだと思いますけれども。
しかしイエスは違います。自分の行動の結果はわかっているのです。イエスの進む道は十字架につながる道でもあるからです。ヘロデにも、ファリサイ派の人々にもそれが見えていません。彼らはイエスが栄耀栄華のために、あるいは名声のために癒しを行っているのだと勘違いしているのです。でもイエスは違います。彼は自分の滅びである十字架に向かって、止まらず必要と思ったことをしているのです。それは悪霊を追い出し、癒しを行うことです。それもヘロデをはじめとした王侯貴族にではなく、貧しい人たちに対してです。今癒しを必要としている人たちに対してです。助けを求める声が、彼らの祈りの声が神さまのところに届いているからです。
教会で「平和のために祈る」という時、必ず「祈るだけでは何の意味もない」という人がいます。「だから意味ないよ」「やめちゃえよ」と。でも、本当にそうでしょうか。わたしたち一人一人の力は弱くて何もできなくても、多くの人が祈ることで行動につながることがあります。祈ることによって動く力が与えられることがあります。神さまに助けられることがあるのです。特に今、無駄だと言われるかもしれないけれども、わたしは今ウクライナで起きている戦争が早く終わるために祈り続けています。そして昨日は11回目になりましたが東日本大震災のためにお祈りしました。まだ仮設住宅に住んでいる人たちもいるし、亡くなった人たちも多くいて、やっぱりお祈りしたいと思ったからです。祈ることは増えていきますが、忘れず祈り続けたいと思っています。
わたしたちは「無駄だ」と思われても祈り続ける信仰を持っています。わたしたちは自分が何のためにこの信仰を持っているのか、もう一度思い出す必要があります。この大斎節はそのための期間です。なぜそうするのかと言えばイエスがそうしたからです。ヘロデに言われても、反対者であるファリサイ派の人々に言われても、あまつさえ弟子たちに言われても、イエスは祈り、悪霊を追い出し、癒しを行ってきました。わたしたちも自分の祈りが、誰かに反対されても、無意味だと思われても、神さまが聞いてくれると信じています。だから祈り続けます。そして、今続けていることを続けましょう。それが終わるときについては神さまが教えてくれるはずです。世界のため、日本のため、釧路のため、そしてこの教会のため、みなさん共に祈っていきましょう。