分かち合うことを大切に

2022年07月31日

ルカによる福音書 12章13~21節

 今日の福音書は「愚かな金持ち」のたとえ。遺産相続でもめていたのでしょうか、イエスのところに遺産のことで調停を願い出た人がいました。そこでイエスが「たくさんの収穫を得た金持ちが、すべてを倉に納めて満足げにしていますが、神によってその魂が取り上げられてしまう」というお話を語ります。「有り余るほどのものを持っていても、人の命は財産にはよらないからである」と、イエスは警告を発しています。そして「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ」と結ぶのです。

 人は誰でも生きている限り死にます。残念ですがこれまで避けることのできた人はいません。イエスですら一度は死んでいるのです。しかし一方で、イエスの時代と違い財産次第で死を遠ざけることが少しはできるようになりました。最先端の医療を受けることで命をつなぐことわけですね。もちろん医療技術は進歩していますので、多くの人がかつてより死を遠ざけることができるようになってはいます。それでも、「誰もが死ぬ」という原則に変わりはありませんし、突発的な事故や災害などは、ある程度の予測や予防ができていたとしても、誰もがそれに出会って命を落とすことがありえます。「メメント・モリ」という言葉があります。ラテン語で「死を想え」という意味になるでしょうか。もともとはローマの将軍が凱旋する時に「今は絶頂だが明日はわからない」と自分を引き締めるために使用人に言わせたものであると言われています。その後、「だからこそ今を楽しもう」という意味で使われたり、「死は救いなのだから、現世での楽しみは空しいものだ」と戒めの意味合いで使われたりしました。

 わたしたちは今、イエスの時代に比べて多くのものを持っています。安心で安全な生活、三度の食事、住居、衣服などなど、どれを比べても、イエスの時代に比べたら大貴族です。それでもなお「足りない」「ほしい」と思うことがたくさんあります。

 今日のたとえ話の金持ちの目線は、徹頭徹尾自分に向けられています。作物をしまっておいて、自分のために消費しようとしているからです。もちろん「自分で稼いだ」のだから当然と言えば当然です。でも、人間は「周囲の人によって生かされている」ということを忘れているような気がします。この金持ちがまさか多くの畑を自分で耕したのではないでしょう。そこには使用人がおり、農夫がいて、様々な取引先があって、さらに神の恵みがあってのこの収穫なのだと思います。「神の前に豊かになる」ということを考えた時に、自分の分は取っておくとしても、周囲に分かち合われるものがあるかどうかというのは大切なことです。葬儀の時「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう」という聖書の言葉が読まれます。どんなにたくさんのものを貯めていても、持って行くことはできません。「メメント・モリ」(死を想う)のなら、「必要なもの以外は分かち合う」というのも大切な視点です。なぜなら人は一人で生きていないからであり、人は誰かと分かち合って生きるように作られているからです。

 一方で、こういった言葉は「過度の自己犠牲」を産んでしまうことがあります。それを勧めるように聖書の言葉が用いられることもあります。しかし「分かち合う」というのは、ある程度「満たされる」ことがあってのことだとわたしは思っています。自分の中身を絞り尽くして誰かに与えるのは、神さまの国ではありません。誰かに犠牲を強いるやり方で、神の国が訪れるとは思えないのです。わたしたちは、自分が「いつかは死ぬ者である」ことを忘れずに、「神の恵みを受けて」「自分を大事にし」ながら、「多くの人と分かち合う」ことを大切に生きていたいと思います。


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