十字架を背負えるように

2022年06月19日

ルカによる福音書 9章18~24節

 本日から主日の教会暦は「聖霊降臨後」の「特定」に入り、ルカによる福音書が朗読されました。ペテロがイエスに対して「神のメシアです」と言い表し、それに対してイエスが「自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と言う場面です。

 イエスがメシア(救い主)であるということをわたしたちはよく知っているわけですが、なかなか難しいのが「自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」という言葉の意味でしょう。「自分を捨てる」のにも関わらず、背負うのは「自分の十字架」です。何を負って、何を捨てるのか、考えてしまいますね。

 ここで大切なのは、十字架を背負うのは「日々」、要するに「毎日」であるということです。今日の福音書の流れから考えると、日常的にイエスを信じることでおこるあれこれのことなのだと思います。確かにこの時代、イエスを信じることで危険性がありました。ローマ帝国になってからは、国教として認められるまでは迫害まであったのです。「イエスを信じている」というだけで危険な時代があったということですね。今でこそ「信教の自由」ということで、表立って何かを言われることは減りましたが、それでも悪く言われることが無いわけではありませんし、誤解もなくなることはありません。だからこそ「信仰を表に出さない」で「表に出すのはたまの日曜日に教会に来た時だけ」という人もおられます。それが悪いとは思いません。誰だって迫害は怖いのです。小学校の時「吉野菌」というあだ名をつけられて、みんなから避けられたことがありましたが、あれは今思い出しても身震いがします。「そんな状況になったらいやだ」と思うことはあります。今でこそ「わたしは牧師です」と言うことができますが、「宗教怖い」と、一気に引かれた時、同じような思いをしたことがあります。「自分を守るな」というのは簡単ですが、なかなかそうできるものではないと思います。

 しかし一方で「信仰を表す」方法は別に「わたしはクリスチャンです」と触れ回るだけではありません。それは「行い」によって示す方法です。わたしたちが「互いに大事にし合う」時、そして社会に対して「大事にする」ように振舞う時、世界はわたしたちが「主に倣って」生きていることを知ります。わたしたちが出会うすべての人に対して「大事にしよう」、出会うものすべてに「大事にしよう」と、完璧にできなくとも、わたしたちがそのように振舞おうとする時、そこに聖霊が働くのです。そして、イエスを救い主であると知っているわたしたちは、そのイエスに背中を押されて、自分の周りのために働くようになるのです。もちろん、慣れないうちは本当に自分の身近にある人にだけ、身近のものにだけしかできないかもしれません。でも大丈夫。だんだんとその範囲は広がっていくものです。「私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう」とイエスは厳しく言います。こういう聖書の言葉を聞くと、「できない」ことを探したくなったり、自分のできてないことを考えてしんどくなったりしますが、そうではないのです。みなさんはイエスさまを信じていることを「自分の中で」恥じてはいませんよね。自分の家族の中で、親しい友人の中で、そして教会ではどうでしょう。そのあたりから始めてみればいいことだと思います。聖書の言葉は厳しく聞こえますが「今すぐ」できるようになれ、という話ではありません。「できることから始めてみよう」ということです。わたしたちは一足飛びに聖人にはなれませんが、何歳であっても信仰的に成長することができるのですから。

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