受け入れることはできますか
ルカによる福音書 15章11~32節
今週の福音書は「放蕩息子」のたとえ。誰もが知っている、もしかしたらクリスチャンじゃなくても知っているお話です。父親に対して相続する分の財産を要求し家を出た弟息子は散財し、一文無しになって家に帰ってきます。その弟息子を父親は受け入れますが、まじめに家で働いていた兄息子はそれを受け入れることが難しかった、というお話です。「無くしたものが見つかった」というテーマでイエスが話した三つのたとえの最後の一つです。
このたとえ話は、神さまにとってすべての人は「自分の子」「創造物」であり、愛している。ところがその中にはまじめに神さまに仕え続ける人と、この弟息子のように出て行ってしまう、神さまの愛から離れてしまう人たちがいる。神さまの愛から離れていた人が神さまのところに戻ってきたということはとっても喜ぶべきことです。けれどもずっと神さまのところにいた人たちにとっては、俗な言い方をすれば嫉妬の対象でもある。と、いうところでしょうか。
教会にはよく「30年前に教会によく来ていた人が戻ってくる」とか、「色々な悪いことをした人が教会に足を向ける」とか「牧師になる」というような話が美談として語られることがあります。そういった人が教会の中心になることもある。それは「いいことだね」という単純なことだけでは終わらず、教会の中に混乱をもたらすことがあります。「あいつだけは受け入れられない」と言う人が出ることもあります。「葬式のためだけに教会に来やがって」という言葉を聞いたこともあります。わたしはかつて、刑務所で求める人に洗礼を授けたことがあります。でも、その方が出所して教会に通うことになったとき、少し困ってしまいました。身元引受先に行くわけですが、その地域に聖公会の教会はなく、残念ですが訪ねてみた教会では受け入れてもらえなかったようで、行く先に困っている、という連絡を最後に連絡がつかなくなってしまいました。実際に、わたしができることということは少なく、仕事を斡旋するのも難しければ、住居を貸して、例えば教会に住みこませるというようなこともできず、給料を払ってやることもできなかったからです。また遠くにいましたので、旅費を送って呼び寄せることも難しい。しかも、その教会は幼稚園があり、「刑務所から出てきた人はちょっと困る」と言われてしまいました。もちろんこれらの心配は当然です。しかし一方で、この「放蕩息子」のたとえのように、罪の中から神を見出した人を受け入れることができない自分が嫌になりました。刑務所でお話するとき「神さまは決して見捨てないんだ」と口で言いながら、その逆のことをしているわけですから。「受け入れられない」理由はたくさんすぐに出てくるのに「受け入れる」理由が何も出てこないのです。神さまの愛を語りながら、それでいいのだろうかと考え込んでしまいましたが答えは出ませんでした。
「神さまの愛」からそれてしまった人を「再び受け入れる」というのは、信仰にとって大切なことです。それがなければ信仰は非常に厳しいものになってしまうでしょう。決して間違えることができないのですから。もちろん、その「逸れ方」にもいろいろあるわけですが、そこに線を引くことはわたしたちにはできません。それは神さまの領域です。でも、わたしたちにできることがないわけではありません。「誰もが道を逸れうる」ということは心に留めていていいでしょう。そして、神さまは「逸れた」後に「戻ってくる」ことを赦している、ということを知っていたいと思います。遠くへ行ってしまったように見えるけれども、長い年月が経ったとしても再び交わることもある、神さまが赦して、わたしたちの方に導いてくれる、そんなこともありますから。「受け入れることはできますか」というのは大きな問いです。答えは出なくても考えてみる大斎節でありたいと思います。