変化するのは遅くない
ルカによる福音書 23章1~49節
今週は長い長い福音書。イエスが十字架につけられる様子が朗読されます。裁判を受け、十字架につけられるイエス。そしてその左右には犯罪人が同じように十字架につけられます。そして「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言ってイエスは息を引き取るのです。本日の復活前主日から始まり日曜日のイースターまで、キリスト教がキリスト教であるための大切な1週間の始まりです。
今日の福音書のポイントはいくつもありますが、今日は一つ、イエスとその両隣で十字架につけられていた犯罪人とのやり取りを見ていきましょう。イエスに対して一人は「メシアならここから降りてみろ」と罵りますが、もう一人は「この人は悪いことをしていないではないか」とたしなめたように、この二人の態度は対照的です。
物事を見る時に色々な角度から見ないと正確にとらえられないとよく言われます。思ってみなかった角度から見てみることで、世界が広がることがあります。保育園などで結構大事なのですが、子どもの目の高さから見てみることで全然見え方が違います。でも、大人になると忘れちゃう目の高さだったりするんですよね。先日久しぶりに「沈黙」を見ましたが、本当にいろいろな角度から見ることができる作品だと思います。「キリシタン」の立場からも、「井上筑後守」など取り締まろうとする立場からも、「宣教師」の立場からも、「転び伴天連」の立場からも、本当に様々な角度から見ることで、見えてくるものは全然違います。
イエスの十字架の場面を見ると、最初に罵った犯罪人の見方は周囲の人たちと一緒です。扇動されていたとはいえ、その土地の人々の平均的な見方であると言えるでしょう。イエスのことを「偽物のメシア」として嘲る立場ですね。それに対してもう一人の犯罪人はイエスに非常に同情的です。でも、心の優しい人だったらまぁありそうな見方だなぁとも思えますね。「悪いことをしていないのに十字架にかけられるなんて」ということですね。ただ、ある意味で、おそらく犯罪人として真っ当なのは罵った方でしょう。何かしらの罪を犯しているわけで、周囲に攻撃的でも当たり前だと思います。だから、「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然」と言い切った、たしなめた方の犯罪人はちょっと珍しいのだと思います。自分の行為を見つめなおすことができているのですね。十字架にかけられていることも含め、自分を受けいれているのです。これからも「生きる」という意味ではこの転換はもう遅かったのかもしれません。だからこそイエスは彼に対して「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言ったのでしょう。「あなたの悔い改めは遅かったのではない」ということなのではないでしょうか。これってすごく大事だと思います。何かを「やっぱり変えようかな」と思う時、「今までこうしてたしな」とか「遅いんじゃないかな」と気になることは結構ありますが、それでも転換したほうが後々楽になることって結構あると思うのです。
人が自分の意見を変えたり、立場を転換するというのは意外と難しいものです。「今までこうしてきたし」と明らかにおかしいことを変えようとしないことがよくあるし、それまでそうやってきたことが無駄になってしまうことを認めたくない気持ちもある。それらはよくわかります。「もう遅いからこれでもいいや」と思うこともあるでしょう。でも、イエスの言う通り「いつでも遅くない」のではないでしょうか。「今更」と変えることに対して揶揄われることもあるかもしれませんし、罵られることもあるでしょう。でも、自分が思ったように自分に変化を起こすことは大切です。それが神さまのほうに向くことならなおさらです。楽園にいることを目指して、わたしたちの思いと言葉と行いを、神さまのほうに向くように、変化させていきましょう。