大事にしよう

2022年05月15日

ヨハネによる福音書 13章31~35節

 本日の福音書は最後の晩餐の後、ユダが出ていった後にイエスが弟子たちに「新しい戒め」を与える場面です。「互いに愛し合いなさい」とイエスは弟子たちに告げます。

 「愛し合う」という言葉はなかなか情緒的な言葉だなと思います。特に高齢の男性であれば「口に出す」のもなかなか難しいものだったりするのではないでしょうか。まぁ、若いカップルならいざ知らず、普通にしていても口に出すのは照れくさい、と思う人もいそうですね。そもそも「愛する」という言葉は仏教用語で「執着」に近い言葉です。また「偏愛」という言葉もあるように「愛」のベクトルが妙な方向に行ってしまうとおかしくなってしまうこともあります。よく事件などで「愛憎関係のもつれ」などと使われることもありますね。「愛する」という言葉は、意味をよく考えないと危険だな、と思います。

 イエスの言う「互いに愛し合う」というのはどんなことでしょう。そのヒントは今日のこの箇所の少し前にあります。福音書は最後の晩餐の場面ですが、最後の晩餐の始まる前、イエスがそこに来た弟子たちの足を洗って「あなたがたも互いに足を洗いあいなさい」と伝えているのです。「足を洗う」というのは食事に招いた人に対しての最大限のもてなしです。イエスはそのくらい弟子たちを大事にしたわけですね。そう「愛する」ということの一番の中心は「大事にすること」なのです。家に招いた相手を、弟子であっても最大限にもてなしたくらい、大事にすることなのです。そしてそれをお互いに「し合う」ことです。一方的に仕え続けるのではなく、一方的に仕えられ続けるのではなく、仕え仕えられているのです。

 「互いに大事にし合いなさい」というのは教会が教会であるために大切なことです。自分が仕えるのももちろん大事ですが、「し合う」ためには自分が大事にされることも受け入れなくてはなりません。そもそも教会に足を運ぶ人は「仕える」ということに慣れている人が多いです。自分を投げ出してでも人のために何かをしてあげることのできる人が多い。それは本当にすごいことです。ところが、それとは逆に、誰かに何かをしてもらうことが苦手な人がとても多い。「わたしなんかにしないでください」と遠慮される奥ゆかしい人が多い印象があります。でも、そうやって「受ける」ことを断ってしまうと、何となくやりにくくなってしまいます。教会の中で誰かが「仕える人」で誰かが「仕えられる人」になってしまってはいけません。そうではなくて「し合う」ということが大切です。仕えるからには仕えられることもあるのです。

 そして何より、教会が大切にしなくてはならないのは、教会に足を運んでくれる人です。いつものメンバーだけでなく、新しく教会に足を運んだ人がいた時、イエスが足を洗ったようにその人をもてなし、そしてわたしたちが「互いに大事にし合う」ところをきちんと見せることで、その人たちはわたしたちがイエスの弟子であって、それを実践しているということを知るでしょう。これが宣教の一番大事なところだと思います。神さまの前で、お互いに大事にし合う、そんな教会であり続けましょう。主はそのための力をわたしたちに与えてくれます。


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