嫌いな人と共存する

2022年08月14日

ルカによる福音書 12章49~56節

 本日の福音書はイエスが結構ショッキングなことを言います。「わたしは分裂をもたらすために来た」と言うのです。ちょうど「平和」について考える時期ですし、イエスさまは「平和の君」と言われることもありますから、この言葉はちょっとショックです。しかし今までの歴史を振り返れば、教会は争いに満ちていたとも言えます。内にも外にもですね。そしてたくさんに分裂してしまってさえいます。ある程度の教理、例えばニケヤ信経などが固まるまでは論争がたくさんありました。十字軍を起こして他宗教と争いました。宗教改革で教派が分かれると、国家間の戦争をもたらしました。植民地や奴隷交易などに理由を与えました。確かに「分裂をもたらすために来た」と言えてしまうのかもしれないなぁ、と思います。

 しかし一方で、これらの争いはイエスがもたらしたというより、人間がもたらしたものであるとも言えます。イエスさまを勝手に理由にして争うことも多いのです。聖書は様々なことを語っていますが、それを解釈するのは人間です。用いるのも人間です。かつて引用された聖書の言葉をナンボ読んでも「どうやったらそんな風に解釈できるんじゃ!」と声を荒げたくなることもあります。もちろん、社会状況や常識などは時代によって全然違います。多分今の聖書の解釈を、少し前、そうですねわたしが生まれたころの人に聞かせても、なかなか賛同を得られないのではないかと思います。ですから100年1000年前なら当たり前のことです。こうやって原因をたどっていくと「聖書があるから分裂するんだ」とか「宗教があるから分裂するんだ」と短絡的に考えたくなりますが、そうではなくて「人が分裂しているのだ」ということなのです。聖書がなくても、宗教がなくても、人は何らかの形で分裂するものです。キノコが好きかたけのこが好きか、野球のチームなのか、サッカーなのか。尊王攘夷というのもありましたね。何であれ人は分裂するものですし、ネタは何でもいいのだと思います。もとになったものに罪はないはずなのに。

 ではなぜ、人は分裂するのでしょう。そして、どうして原因を何かに擦り付けようとするのでしょう。原因になっているのは「何か気に食わない」ことを隠そうとするからだと言えます。はっきりと「好き嫌い」を言うことで争いになるのなら、それを回避しようとするからです。何でも争ってはいられませんからね。「好き嫌い」というのは個人の自由です。思想信条もそうです。本来干渉できないものです。だからこそそれを変えさせようとするのなら争いが起こります。その原因を「自分」や「相手」ではなく、別のものに擦り付けた方が楽なのです。「政治的信条」「宗教」などなど。でも本来、政治的な信条や宗教の信仰って、集団に見えますけどその中身は呉越同舟です。わたしたちの聖公会なんて、本当に同じなのかと思うくらいいろいろバラバラです。でも、わたしはそれでいいと思っています。全員が同じ方向を向いている集団は、強力な推進力を持ちますが、方向性が間違っていた時に止めるすべがありません。狂信者集団になってしまうのです。

 そんな時に大事なのは「意見の違う人と共存すること」だとわたしは思います。意見が違っても同じ方向を向くことができます。そのために大切なのは「口に出すこと」だと思います。自分の望みを、好き嫌いを、わがままを「口に出す」こと。そして、それを出されたときに「受け止める」ことだと思います。「あの人とは意見が合わない。だからさようなら」ということではなく、意見が合わないけれども共にあろうとすることです。教会の先行きを決めるのに、これから様々な意見が出るでしょう。でも「教会として共にあること」を大切に進んでいきたいと願っています。


無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう