敵ってなんだろう、誰だろう?
ルカによる福音書 6章27~38節
今日の福音書でイエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言います。理念はわかりますが、なかなか難しい言葉ですね。だって、相手は「憎い」「敵」なのですから。わたしたちにとって「敵」ってなんなのでしょうね。そして、イエスはどんな相手のことを想定していたのでしょうか。
この時代ですと、考えやすいのは「異教徒」でしょうか。それとも「他国人」、いや「異民族」でしょうか。でも、現代の日本において「異教徒」や「他国人」や「異民族」を敵と考えてしまうのはとても難しいし、またありえないことです。この教会が立っている地区にはお寺も神社も教会もあります。仏教徒や神道の氏子、他教派の人間、新宗教の人たちを今、「敵」とするような信仰の持ち方は考えられませんよね。様々な形で手を取り合っていこうとするのが当たり前の姿勢です。わたしたちの周囲にはたくさんの国籍の人がいます。すぐ近くにある釧路港に立ち寄る人々の中には様々な国の人たちがいます。自国だけですべてのものを賄えない状況ですから、他国の人を「敵」とするのも無理があります。世界はつながっているからです。じゃあ「民族」はどうでしょう。日本を「単一民族」と言ってしまうような不見識な考え方はともかくとして、この地域には様々なルーツを持った人々がいる。この教会の宣教の中には大和民族だけではなくアイヌ民族の人たちも含まれていたはずです。そう考えると、他の民族を「敵」とするのにも無理があります。
「敵」ってなんでしょう。辞書的な意味であれば「争う相手」ということになります。スポーツなどでは試合の相手のことを「敵」とか「敵チーム」という言い方をしますね。でも、本来は「相手」とか「相手チーム」というべきなのかなとも思います。チーム同士の敵対意識が強すぎて、本当に「敵」になってしまうことがあります。チームのファン同士が喧嘩して事件になることもありますよね。でも本来、その争いごと、試合などが終わったら、別に敵ではないのではないかと思います。わたしたちは簡単に「相手」を「敵」にしてしまうことあるのです。
もちろんこれは、奪われることに対して「抗うな」と言っているわけではありません。争わなくてはいけないことはもちろんある。抵抗しなくてはいけない時がある。でも「敵」としてではなく「相手」として、敬意を払って争ったり戦ったりすることが大切なのかなと思います。もしかしたら将来的に「敵」でなくなるかもしれないということは想定していいと僕は思います。
イエスが想定していた「相手」はおそらく、当時のユダヤを支配していたローマの役人や兵士のことでしょう。しかし長い目で見れば、その人たちもみんな神さまの愛によって変えられていったのです。
「無理をして」「敵を愛しなさい」ということではありません。「できる範囲で」「敵を愛しなさい」ということです。神さまはわたしたちに「無理して」「いつも犠牲にして」いなさいと言っているわけではありません。自分のできる範囲で、神さまの栄光を表すために「敵を愛しなさい」と言っているのだと思います。「敵」は思っているより多くない、そんなことも思うのです。