新しい命・復活の命
ルカによる福音書20章27,34~38節
今日の福音書は「復活について」のお話。サドカイ派の人々がイエスに「復活について」の質問をしますが、それに対してイエスは復活後の命について語ります。
みなさんは「復活」という言葉にどんなイメージを持っているでしょうか。「死んだ人が生き返る」とか「肉体的には一番いいときで」とか、そんな感じでしょうか。その辺を細かく掘り下げていくと、訳が分からなくなってきます。亡くなった自分の近しい人が今、目の前で生き返るとして、その人はどんな形だったらいいでしょう。自分と同じ年齢くらいで? それとももっと若いとき? じゃあ本人はどう考えているでしょう。こうやって考えていくとわからなくなってきましたよね。それでは自分が天国に行ったとして、その時の自分はどんな感じになるでしょう。若いとき? 年取ってから? 子どもが生まれてから? その時の記憶は? と考えていくとやっぱり訳がわからなくなってきます。サドカイ派の人の質問もそこをついたわけです。イエスに対して「いつの時点で復活するのか」という問答を仕掛け、そうするとどの時点で復活するにしても矛盾がどうしても出てくるので、そこを更につこうと考えた、ということです。もともとサドカイ派の人の考えていた「復活」というのはエリヤによって生き返ったサレプタのやもめの子どものような「蘇生」ですから、どうしても矛盾が出てきてしまうのです。それに対するイエスの答えはシンプルです。「復活後の命は、復活前の命そのままではない」ということです。「蘇生」ではなく「新しい命」なのだということです。
サドカイ派の人々には心配がありました。復活後も今までの人生が続くと考えているので、様々なところに矛盾が出てきてしまうのです。しかし神さまの示した「復活」はそうではないとイエスは教えてくれています。「アブラハムの神」という言葉が出てきたのは、神が単に「アブラハムの神だった」と言うことで終わりなのではなく、今も神は「アブラハムの神」であり続け、その契約は有効だからです。なぜなら神さまは人の死でその契約を終わりにするのではなく、死後も続けているからです。神さまとの関わりの中で死者も生きているのです。だからこそ「死」の先に「復活」があるのです。「死者」も「新しい命」の中に生きていなければ、神が契約を続ける意味がないからです。キリストに結ばれた者は「永遠の命」を生き始めているのです。
イエスの教える「復活」は「新しい命」です。今までとは更新された生き方です。この「新しい命」がいつ始まるのかと言えば、それは「古い世界が終わって新しい世界が来る」終末の時です。しかしその前に、キリスト者はその生き方を先取りして生きているはずです。具体的には「洗礼」の時に水の中をくぐって一度死に、引き上げられて「新しい命」によみがえったからです。わたしたちは実はもう、「新しい命」の中にいるのです。
と、言われてもちょっと困りますよね。じゃあわたしたちはどうしたらいいの? ってなりませんか。でもそのためのヒントも神さまはわたしたちにたくさん示してくれています。それは、わたしたちの生き方を神さまの国にふさわし生き方に変えていくということです。すぐに100%変えることは無理ですけど、少しずつゆっくりと変化させていくということです。多くの人の隣人となり、人を助けて生きようとすることです。そして、いつも神さまに感謝することです。
神さまはわたしたちをいつも支えてくれます。わたしたちと共に生きておられます。そして、先に天の国に行った人々とも一緒に生きておられます。そのことを信じて、これからの歩みを続けていきましょう。