新しい戒め
ヨハネによる福音書 13章31~35節
本日は復活節第5主日。福音書はヨハネから「新しい戒め」。最後の晩餐の際、イエスがユダに対してパン切れを浸して与えるとユダは出ていきます。そこでイエスは残った弟子たちに対して「互いに愛し合いなさい」という戒めを告げるのです。そして「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るであろう」と言います。
「互いに愛し合いなさい」というのは、日本の言葉に置き換えれば「互いに大事にしあいなさい」というニュアンスになります。「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉がポイントで、要するに「イエスが弟子たちや周囲の人々にしていたように」お互いにしなさい、ということです。イエスは様々なことを弟子たちにしています。教え諭すこともそうだし、困っているときに手助けをしたり、導いたり、さらには共に食事をし、病気のときに癒したりします。そして一緒に周囲の人に対して働き、友のない人の友となるなど、自分の周囲を大事にしていきます。それを「お互いに」しなさいというのです。
こう言われたときにわたしたちは「お互いに」というのはどの範囲ですか、という問いに辿り着くことがあります。これはいろいろな人が辿り着き、こだわってしまう問いなのですが、これを聖書の言葉で置き換えると「隣人とは誰ですか」という言い方になります。ユダヤ教はこの「隣人」「お互いに」という範囲を明確に「ユダヤ教徒」と定めています。だからある意味わかりやすく「異教徒」「異邦人」は助ける必要がありませんでした。これに対してイエスは「助けが必要な人に対して無条件で助ける」ことを勧めます。「よきサマリア人のたとえ」がその好例でしょうか。だからこそ教会は、イエスの勧める通り、様々な「人を助ける」活動を行ってきました。しかし一方で、その活動は本当に多岐にわたります。一人で行うことはどうやっても不可能で、わたしたちがいざ「何か手助けしよう」と思うと、どこから手助けしていいのかわからなくなってしまいます。そこでやはり「どこで線を引くのか」という新しい「お互いに」ってどの範囲だろう、という問いが出てきてしまうのです。しかしこれも「よきサマリア人のたとえ」が良い説明になるでしょう。これは倒れている旅人を見た祭司やレビ人は無視したけど、通りかかったサマリア人の旅人が助けたという話でしたね。このサマリア人は助けようと思って歩いていたわけではなく、目の前に倒れている人がいたから助けたわけです。つまり、わたしたちは目の前に現れた人に対して「助ける」「大事にする」ことを選択していけばよいのだということです。まずは「目の前の人」「自分の出会った人」から始めるということです。「まず隗より始めよ」とも言えますね。そうやって自分の出会った人を大事にしていくことによって、その行動原理は何か、という興味を持たれることになり、それが「イエスの教え」にあることが自然と理解されていくだろう、ということなのです。そしてこれが「宣教」なのです。
わたしたちはイエスの「戒め」という言葉を聞いて構えてしまいます。「何か特別な新しいことをしなくてはならないのか」と思います。でも、イエスはそんなことを言っているのではありません。今目の前でわたしが出会う人、家族、訪ねてくる人、道で出会った人などなど、わたしたちが出会う人たちに対して「大事に」することです。やり方はたくさんあります。家の前に花を植えることだっていいのです。それを見た人が温かい気持ちになるかもしれません。すれ違う近所の人にあいさつすることもそうです。本当に何でもいいのだと思います。ただ会って話すだけで救われることもあります。自分だけで完結せず、人と関わりながら生きていくことが、「愛し合う」ことにつながるのです