洗礼・聖霊・召命
マルコによる福音書 1章7~11節
本日は「主イエスの洗礼」の記念日。福音書はマルコによる福音書から洗礼の場面が読まれました。霊が鳩のようにイエスに下り「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえます。イエスは洗礼の際に霊を受け、活動を開始します。この出来事が「顕現」や「公現」と呼ばれ、この時期にお祝いされています。「イエスの召命」とも言える出来事です。旧約聖書もイザヤ書から「第2イザヤの召命」の部分が朗読されました。
教会では時々「召命」という言葉が使われます。「召命」というのは「神さまの呼びかけ(命令)」によって「それぞれの役割へ召される」ことです。これだけ聞くと何か特別なことのように思われますが、そうではありません。「神さまの呼びかけ」はすべての人に向かって、いつも行われています。その声をわたしたちがふと聞いて、その呼び掛けに「応える」時、「召命」が起こります。そしてその呼びかけはいつも唐突なものです。イエスもそうでしょう。自分の生まれたときのことは母マリアから聞かされていたとしても、それ以降30年、家族を支えて働きながら生活したのです。「神の子」と言われても「まさか」と思うくらいの年月がそこにはあります。そして、ふと洗礼を受けに来た時、霊が降ってきたことによって、「神さまからの呼びかけ」を受けるのです。「霊」はその後、イエスを荒れ野に連れて行ったりと、イエスの意思に関係なく、神さまの力で導いていくのです。神さまからの「召命」には、わたしたちの意思を超えた力が働くものです。
イエスにとっての「召命」は神の子として召し出されることでした。そしてその道は十字架に向かっていくわけです。非常に大きな「召命」です。しかし、例えばイエスの弟子たちにとっては、イエスの弟子として、イエスの行いを語り継ぐこと、伝えていくことが「召命」となったでしょうし、他にも「教会をたてる」召命を持った人もいれば、アキラとプリスカのように自分たちの仕事(紫の布を商うこと)をしながらイエスたちをサポートする、という召命もあるでしょう。また、下で紹介している聖人たちのように、海外への宣教や修道院を建てるような「召命」もあるし、農業に従事するとか、スーパーで働くことが「召命」だということもあります。神の霊による召し出しは、ありとあらゆる分野に及びます。その場所で、自分の生き方として信仰を示すのも立派な召命なのです。それは、どんなことであってもいいと思います。
イエスの召命は、霊が鳩のように下ってくるという、とても劇的なものでした。人目にもわかりやすいもので、それを見た誰もが納得したでしょう。でも時に「召命」は、神さまの呼びかけは、とってもかすかな声で、全然聞き取れないこともあります。しかしそんなとき、わたしたちにそれをそっと伝えてくれるのが「聖霊」の働きです。わたしたちが静かに、自分たちの中に息づいている「神の息」に向き合うとき、聖霊は静かにわたしたちに「召命」を教えてくれます。イエスもよく、人のいないところで静かに祈り、神さまに向き合う時を大切にしていました。わたしたちも、静かなところで神さまに、また自分の中にいる霊に向き合うことによって、かすかな声が聞こえてくるようになります。もちろん、劇的な形でも、静かに祈っているときでもなくて、わたしたちが日々の生活を送る中で、突然ハッと気づくことかもしれません。なんにせよ、大切なのは、わたしたちのところには「神さまからの呼びかけが来ている」ことを知ることです。
イエスのように劇的ではないかもしれませんが、わたしたちもまた、霊によって召し出されていく者です。神さまの呼びかけに応えて、歩むことを大切にしていきましょう。