神さまに創られた
ルカによる福音書 16章19~31節
今日の福音書は「金持ちとラザロ」のたとえ。生前は金持ちの家の門の前に横たわっていたラザロが死後天の国に入る一方で、金持ちは地獄で苦しみます。そこには深い淵があって渡れず、自分の兄弟たちに警告しようとしてもできないと言われてしまいます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないならば、誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう」とイエスは警告します。
フランス革命の時、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」とマリーアントワネットが言ったというのは有名な話ですね。ただ、彼女の状況を考えれば「毎日の食べ物に困る人がいる」ことが創造の範囲外だったというのはわからないではありません。ただもちろん「知らなかったから」というだけですまされないことだろうなぁとも思います。例がどぎついものになりましたが、自分の想像できる範囲って、自分の経験した範囲内から大きく飛び出すものではありません。多分マリーは本気で、食べるものがない状況を考えてすら見なかったんだと思います。そんな状況になったことがありませんからね。でも、苦しむ人々にとってはなんとひどい言い回しだと感じられたことでしょう。彼女と苦しむ庶民の間には深い淵があって、飛び越えることすらできなかったのでしょう。こういった理解と理解の「深い淵」というのは、結構あちこちに開いているような気がするのです。
2012年に行われた宣教協議会に参加した時はまだまだわたしも言葉にできなかったのですが、あの時「深い淵」が、日本聖公会のあちこちにあったのだろうなと思います。「宣教」という言葉一つをとっても「理解」と「理解」の間に「深い淵」がたくさんあったように思うのです。東京と北海道は違う、北海道と沖縄は違う、という単純なことを、地域性を無視して何が宣教だろうかと違和感を覚えました。大きな大会と、出てきた「宣言」の「正しさ」の陰に隠れてしまった小さな教会の叫びを、何とか形にしたいと思いました。次回の宣教協議会が2023年に行われるのですが、そのときうまく言葉にできなかった「深い淵」のありかを少しでも言葉にして、できればいい会になるようにしたいのです。
イエスは「モーセと預言者に耳を傾けないのなら」と警告します。「モーセと預言者」というのは要するに聖書のことです。聖書の警告に耳を傾けることは大切です。まったく違う状況の人々の声に耳を傾けること、想像力を、自分の体験を越えて働かせることです。そのためのヒントは「聖書」にあります。まず、忘れてはならないのは「誰もが神によって創られたものである」ということです。創世記の初めに記されていますね。そのことを忘れないだけで、多くのことが動きやすくなると思いませんか。わたしの好きな人も、嫌いなあの人も「神さまに創られた」という一点において同じだということは忘れてはいけません。道端のホームレスを見て、「汚い」とか「臭い」などと思うことがあるでしょう。確かに事実としてはそうなので、そう思うことが「悪い」というわけではありません。でも、そんな彼も「神に創られた、わたしと同じ人」であることを思い出すと、できることが見えてくるのではないでしょうか。食べ物を差し出しますか、身を清めてあげますか、どこかに連れていきますか。そして何よりその人の話を聞くことができますか。彼にもわたしたちと同じく意思があるのですから。わたしの好きな人にも嫌いな人にも、身なりのきれいな人にも汚い人にも、意思があり、神さまに創られて生きているのです。想像力を働かせましょう。わたしたちの誰にでもその力が神さまによって備えられています。聖書の警告を胸に、周囲の人を助けながら、今日を生きていきましょう。