神さまのタイミング
ヨハネによる福音書 10章22~30節
今日の福音書はイエスとユダヤ人たちとの問答です。「メシアならはっきり言え」と迫るユダヤ人たちに対してイエスが答えます。
「イエスがメシア(救い主)である」というのは、わたしたちにとって、すでによく知っていることですよね。でも、それを知らない人たちからすれば聞いたことないこと・見たことがないこと・信じがたいことであり、わたしたちはいつも発信しているのですが、なかなか多くの人のところに届かないことでもあります。なんというか、よく「証拠がない」とも言われることがありますね。このユダヤ人たちにとっても、イエスは自分で自分のことを「父のところから来た」と言っているはずですが、なかなか信じられなかったのでしょう。
自分は幼児洗礼だったので「はっきり信じたタイミング」というのはあまりよくわかりません。子どもの時から教会に行っていたものですから、その辺の境目があまり明確じゃない気がします。でもそうですね、少しだけはっきりしているのは、大学のころから最初に就職した後まではほとんど教会には寄り付かない時期があって、その後教会に再び行き始めた時に、いろいろ意識的に考えるようになって行ったのかなと、自分のことを振り返って思います。その時も特に小ことかがあったわけではないのですけれども、何となく自分の中でカチッと歯車がかみ合ったような、スイッチが入ったような気がしています。でも、このタイミングは、特に自分で決めたものではないんですね。後から振り返ると、そういうタイミングだったのかなと思いますが、自分ではない何かのタイミングがそこにはあったのだと思います。
様々な人生の転機って、自分でタイミングを決めることもできますが、そうではなくていつの間にかその時期に差し掛かっていることがよくあります。正直なところ、わたしは自分の人生の選択を「自分で全部決めた」というよりも、神さまの決めたタイミングで進んでいったと考えるほうがしっくりくるのです。「イエスが救い主である」と信じるタイミングもそうですね。
人はどうしても自分の人生を自分でコントロールできるという幻想を抱きがちです。健康に留意してても病気になるときはなります。安全に気をつけてても事故にあうときはあいます。残念ですが自分で全部コントロールすることなどできはしないのです。自分のことだってできないのに、自分以外の人のことなんて無理に決まってますよね。このユダヤ人たちも「イエスがメシアである」とはっきりした証拠と共に信じることができれば、今後の自分たちの生き方を変えることができると感じたのでしょう。そしてもしかしたら、イエスが何かを言うことをコントロールできる気でいたのかもしれません。でも、残念ながら物事は「自分の決めたタイミング」ではなくて「神さまのタイミング」で起こることの方が多いのです。わたしたちにできることは、そのタイミングを信じて、今できることをするだけなのです。
そこで悲観的になることはありません。何もかも無駄だということではありません。「自分でできることではない」という気づきが大切なのです。そこで神さまに委ねることが大切なのです。なぜならわたしたちは神さまに従う羊だからです。声を聞き分けて、イエスに委ねてついていくのです。「神さまのタイミング」を見極めながら、これからもゆるゆると従っていきましょう。