神さまの国を目指して
ルカによる福音書 13章1~9節
今日の福音書は2つに分かれています。一応前半の件についてのたとえ話が後半なのですが、別の話をくっつけたとも言えますね。今日は前半の部分についてお話したいと思います。
「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ということ、「シロアムの塔が倒れて18人死んだこと」がイエスの口から語られます。これは「告げる者たち」からイエスが言われたことのわけですが、この人たちはただ単純に「そんな痛ましい事件があったよ」ということを語ったわけではありません。イエスがそのあとで言ったことから考えるに、「この人たちは罪人だった」ないし「罪深かった」から事故や事件が起こった、と捉えてイエスに告げたのだろうと思われます。「あんなことがあったなんて、そこで死んだ人たちは罪深い人だったんだねぇ」というわけです。そこでイエスはそのことを否定し、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言ったのです。
「因果応報」というのはとても分かりやすい考え方です。良いことをすれば良いことがあり、悪いことをすれば悪いことが起こる、シンプルな考え方ですから。でも、ここではっきり申し上げておきますが、教会に、キリスト教に、そういった考え方はありません。「教会に行かなかったから罰が当たった」と考えたりしますが、そんなこともありません。因果応報ではなく、みんなが悔い改めなければならないと教えるのがキリスト教なのです。
こう言うと「悪いことをしていないし、決まりを守っているのだからいい」「おかしい」とおっしゃる方がいます。もちろんその気持ちはよくわかります。「悔い改める」というと、どうしても「反省して、何かを改めなきゃ」と考えてしまいますからね。「悪いことしてないのに」と思ってしまうのも納得です。でも「悔い改める」と「罪」についての教会の考え方はその考え方とは違います。教会では「人は神さまに創造された」と教えます。これも進化論の否定とかそういう話ではなくて、「人の生き方は本来、神さまに向かって生きる生き方なのだ」という意味です。「神さまの国」を目指して動いているのが本来なのだ、ということです。ところがそうできずに争ったり裁きあったりしてしまうので、道からそれてしまっていることが「罪」と考えます。そして、それを軌道修正して、神さまのほうを向いて生きるようにする、その軌道修正を「悔い改め」と言うのです。
残念ながらわたしたちはいつも「神さまのほうを向いて」生きることが難しいのです。日々の生活の中で、自分がなかなかできないことを「神さまの助けによって」何とかしようとしています。でも、できないのです。いつもにこやかにしていたいところですが、なかなかできません。
「神さまのほうを向いて」生きると言ってもどうしていいのかわかりませんよね。ひとつわかりやすいのは、自分の周りを「神さまの国」に向かって変えていくということです。じゃあ「神さまの国」ってなんでしょう。どんなところでしょう。これはわたしたちのイメージでいいのです。単純なことかもしれません。わたしたちの信じる神さまの国は自分の周りの人が泣いているところでしょうか、笑っているところでしょうか。怒っているところでしょうか、穏やかにしているところでしょうか。単純なことから考えていくと、自分がどうしていきたいのか見えてくると思います。それを「できるときに」「ちょっとずつ軌道修正」していけばよいのだと思います。何回でも失敗しながら、神さまの国に向かってちょっとずつ進むのです。あ、無理しちゃだめですよ。それこそ神さまの国ではなくなってしまいますから。「神さまの国を目指して」これからも進んでいきましょう。