神の国をひたすらに進める
ルカによる福音書 9章51~62節
今週の福音書は、サマリアで歓迎されなかったことで腹を立てたヤコブとヨハネが「滅ぼそう」という趣旨のことを言い、それに対してイエスが叱る場面と、「わたしに従いなさい」と声をかけた人が「まず○○をさせてください」と断ることに対して「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と言い放つ場面の2つが読まれました。この2つの場面に共通点を見出すのは容易ではありません。正直全然違う話のように感じられます。
鋤や鍬で畝を耕す時、一心不乱にやってもなんか曲がってしまうことがあります。特によそ見をしていると効果てきめんで、グネグネと曲がった畝が完成します。そうならないように糸を張ってやったりするわけですが、小さな菜園でしたら「まぁ多少曲がっててもいいか」と流してしまったりします。
イエスは「神の国」を伝えるために活動していますが、実際にイエスに与えられた時間は3年くらいでとても短く、よそ見をしている余裕はありませんでした。ヤコブとヨハネが歓迎しないサマリアの町に対して「滅ぼしましょうか」と言ったのですが、もちろん「そんなことをすべきではない」ということでもあったのでしょうが、「神の国を広めるためにいろいろなところを回りたかった」ということも関係しているかもしれません。本来は一つ一つ立ち止まってやっていくべきなのだとは思いますが、多くの人々に「神の国」を広めるために先へ進むことを優先したのではないかと思います。
神学校の試験の時、1つの問題にこだわってしまい、時間が足りなくなってすべての問題に目を通すことができなくなったことがあります。その時に言われたことは「一つの問題にじっくり取り組む、考えるのは悪いことではないけれども、いったん保留して他の問題に目を向けたほうがうまくいくことが結構あるよ」ということです。確かに、一つのことにこだわり続けると、かえって視野が狭くなったり、全体的にうまくいかなかったりしたことがありました。精神的にも負担になってしまったことがあります。でも「神の国」全体を進めるために、別の部分から進めるというのも大事であり、それは他の人に委ねてもよいのだということがよくわかった経験です。後になってから取り組んでみたらあっさり終わってしまったというのもよくあります。
わたしたちは「神の国」を広めるためにこの世に遣わされています。キリスト者であるとはそういうことです。「神の国」を広める方法はたくさんあります。本当にいろいろな仕方があるのです。でも時々、わたしたちはその中の細部にこだわりすぎてしまって、全体として神の国を広めることを止めてしまうことがあります。ですからわたしたちは一つ一つを裁くために止めるのではなく、わき見をしたり振り返ったりするのではなく、神の国を広め続けます。そしてまた、わたしたち一人一人にできることは大きくありません。自分一人でやろうとしても無理なのです。ですから、神さまはイエスさまに、あの時代、ユダヤの国という小さな地域で活動をさせました。そしてそのあとはその弟子たちに委ねて全世界に、自分のことを広められたのです。そして、わたしたちも神さまの働きの一端を担っているのです。ユダヤの国から始まって、遠く離れたこの国にまで、神さまの言葉はやってきているのです。
わたしたちは、主の言葉を聞いて、神さまのことを世界に伝えるために遣わされています。クリスチャンになるとはそういうことです。別に声高に言い立てるだけが宣教ではありません。わたしたちが周囲の人を大切にしていくことで、神さまのことを周囲に伝え続けていくのです。神さまに守られながら、多くの人を大切にしていく生活を続けていきましょう。