神の気前のよさに目を向ける
マタイによる福音書 20章1~16節
本日の福音書は「ぶどう園と労働者」のたとえ。有名なお話ですね。ぶどう園の主人が、時間ごとに労働者たちを雇い、遅く来たものから先に賃金を全員同じだけ払ったというたとえ話です。天の国はこのようなものである、とイエスは言います。
このお話を聞くと「不公平だなぁ」と思う人は多いと思います。「たくさん働いたんだからその分報酬をもらうのは当たり前」というのが現代の普通の感覚ではないでしょうか。また「報酬をあげたい」のはわかったけど、「あげる順番を逆にすればトラブルにはならなかったのではないか」と考える人もいるのではないでしょうか。この話を普通の雇用関係だと考えると上記のように考えるのが当然です。でも、これは「天の国」についてです。
「功徳を積む」とか「善行をすると神の恵みがある」という考え方は、どんな宗教にもあります。古来より、人間は「神と売買契約を結ぶことができる」と考えていました。供え物をすれば、善行を行えば、大きな神殿を建てれば・・・etc. 「神に対してよいことを行えば、神がわたしの願い事をかなえてくれる」というわけです。わたしがささげたものと与えられるものの等価交換です。ヨブ記でもサタンが「誰が利益もないのに、神に仕えるだろうか」と嘯いています。しかし聖書の描く神は、わたしたちの信じる神は少し違います。「正しいことに対して正当な報酬を返し、悪しきことに対して罰を下す」という「正義の神」の側面だけでなく、「憐れみをもって人を助ける」「気前の良い神」の側面を持っており、この「気前のよい神」の側面が強いのです。わたしたちの主は「正しい神」である以上に「気前のよい神」なのです。「自分のものを自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさを妬むのか」という主人の言葉が、今日の一番重要なところです。
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とイエスは語ります。もし、教会の中で「古くからいる人たち」「ずっと善行をしてきた人たち」だけが救われるのなら、日本で信仰しているわたしたちの救いはずっと後になります。パレスチナでずっと信仰を守っている人たち、ヨーロッパじゅうで信仰している人たちが先ですよね。でも、そうではないのです。そんなことを言いだせば、イエスと使徒たちが先になり、ほかの人々はすべて後になる。このたとえ話で言うならば3時とか5時に雇われた人たちになるわけです。自分たちが先だとどこかで思っていないでしょうか。
「あの人は新しい人だから」とか「わたしは〇〇家だ」というような話は教会の中に、特に古い教会の中によく転がっています。「あの人は教会の功労者だから優先しなさい」とか「わたしはこれだけこの教会に尽力してきたんだぞ(だからわたしの言うことを聞け)」と迫られたこともあります。ようやく宣教150年を迎えた教区の中で、下手したら設立50年足らずの教会の中でもこんなことが起こります。「神と売買契約を結ぶ」のは、誰にでもわかりやすいのですが、わたしたちの信仰は「神の気前のよさ」に向けられなければならないのです。
もし「正義の神」「公平の神」の側面が強く、良い人に良いことを返し、悪いことには必ず罰を下す神だとするならば、わたしたちの現状がすべてを現すことになります。それは全く言い訳のできないことです。「正義」が支配する世の中は、すべてが数値化されて上下関係がはっきりする世の中です。これほど生きづらい世の中があるでしょうか。神が「気前がよい」からこそ、わたしたちは生きていけるのです。神の「気前のよさ」にすがりながら、今日も一歩一歩歩んでいきましょう。