神への信頼

2022年02月13日

ルカによる福音書 6章17~26節

 今日の福音書は、イエスが沢山の病人を癒して、その後弟子たちに教える場面です。「幸い」と「災い」をイエスが語ります。

 イエスの時代、癒しのわざなどは、その人から出ていく力によって為されると考えられていました。そして「幸い」現代で言えば「祝福」や「災い」現代風に言えば「呪い」も、その声が「力」になって相手に向かっていくと考えられていました。イエスには「力」があったので、実際にそうなるわけですね。「言」が現実になる、まさに「神」です。

 今日の福音書では「幸い」と「災い」が対比して置かれています。ただ対比しただけではなく、イエスは「貧しい」人に対して「祝福」し、「富んでいる人」を「呪った」のです。ちょっと怖いイエスさまですね。いつもこの話を聞くと、確かに「慰め」になるとは思うのですが、時に人を裁く原因にもなるのかなと思います。教会の中で実際に「あいつはお金があるんだからもっと献金すればいい」という言葉を聞いたこともありますから。

 そもそも「富んでいる」「貧しい」というのはある程度相対的なものです。日本人の中で「貧しい」人だとしても、例えばアフリカやアジアの最貧国の生活よりはよほどいい生活をしている場合があります。比べていくと、際限がありません。でも、年収なんかで制限つけるというのもなんか違います。「貧しい」「富んでいる」というのは非常に恣意的で感覚的なものだ、というのはわかっていたほうがいいように思います。下も上も、いくらでも見ることができますから。

 イエスは別に「年収いくら以上の人が富んでいる」「だからそいつは呪われろ」とかそんなことを言いたいのではありません。イエスが話しかけていた人々と、今ここで話を聞いている人を比べたら、全員「富んでいる人」なのは間違いありません。じゃあ、わたしたち全員呪われるのか、という話ではないと思いますし、誰か特定の個人が「富んでいる」のか「貧しい」のかを考えることは意味がないと思うのです。

 イエスが伝えたいのは「貧しい」「富んでいる」に関わらず、その「富」を越えた先にあるものです。そもそもわたしたちは裸で生まれ、何一つ持たないでこの世を去っていくものです。そしてその先にあるのは神の国であり、「富」の関係ない場所のはずです。そこにいるのは「神」であり、そこに至るのに必要なのは「神への信頼」です。そもそもわたしたちの中には、「貧しい」部分も「富んでいる」部分もあるはずですし、「貧しかった」時も「富んでいた」時もあったはずです。「神の国」も「豊かさ」も「食べ物」も「喜び」も、神さまがわたしたちに与えてくれるものではなかったでしょうか。「よろずのものは主より出ず。我らはただ主の御手より受けて主にささげたるなり」と聖餐式の中で唱えているのはただ唱えているだけなのでしょうか。そのことを常に心のどこかに留めておきたいと思います。そこでわたしたちがすることは「神さまが整えてくれる」「神さまが備えてくれる」ということを信じること。ただ神さまに信頼して、為すべきことを為すだけです。神さまのことを自分の周りの人に伝えること。口で、行いで、態度で、様々な仕方で伝えるだけです。

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