義が勝る
マタイによる福音書 5章13~20節
今日の福音書はマタイによる福音書から「地の塩、世の光」と「律法について」の2つのまとまりが読まれました。最後にイエスは「あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と弟子たちに語りかけます。
「義」という言葉はマタイによる福音書でよく使われる言葉で、ここで使われている「義」は「正義」とか「神様から見て正しいとされていること」のような意味でざっくり捉えておけばいいでしょう。さて、そう読んでいると「律法学者」や「ファリサイ派」にも「義」があるという捉え方になるんですよね。「あれ?」と思いませんか。だってイエスは彼らといつも争っている様に見えるし、聖書に残されている彼らの振る舞いは、どうにも融通が効かなかったり、難しすぎたり、人々の実態に即していないように見えるので、どうも彼らにも「義」があるとは捉えにくいからです。わたしたちが時々勘違いしてしまうのですが、聖書は「キリスト教以外に正しいことがない」とは一言も言っていないのですね。当然、当時の論敵たちにも「義」はあった訳です。大体において、その宗教を信じているからとか、その派閥に入っているからとか、その国籍だからといって、その人自体が邪悪であったり、間違いだらけだったり、人助けを一切しなかったりする訳ではなく、人は誰しも「自分の義」を持って生きているのであり、当然「神の義」に通じる部分もあるものだからです。どんな思想信条を持っていたとしても、少なくとも自分の仲間とは助け合うし、それ以外の人にも手を差し伸べるものだからです。ちなみに現在「ユダヤ教」は基本的に「ファリサイ派」の流れを汲んでいます。もし彼らに一切の「義」が無かったのなら、今まで残っているとは思えませんよね。だからこそイエスは「あなたがたの義が彼らの義よりもまさっていなければ」という言い方をしたのでしょう。
「自分たちだけが正しい」と考えてしまうのはとても楽ちんです。他の生き方は間違っていると無条件に規定すれば考えなくて良いですからね。でも、そうではなくて、周りの様々な生き方にも、「それぞれの義」があるかもしれないと考えます。これはわたしたちが宣教を考える上で、絶対に忘れてはいけない前提です。そうでなければ「全世界が敵」になっていってしまいますし、「教会」が「社会」から孤立した集団になってしまいます。かつては「教会外に救いなし」と言って、社会から孤立することをむしろ尊んだ時期もありましたが、今はそう考えません。むしろ「社会の中に教会がある」と考え、わたしたちがどのように「社会に義を示していくのか」を考えることが大切だとされています。教会が社会活動をすることや、政治的な働きをすることを嫌がる向きもあるのですが、わたしたちの「義」を示すためにはそのことは避けて通れないと言えます。また、幼稚園や保育園、学校や老人ホームなど、直接的な社会貢献をする活動もしていますよね。そう言った活動の「全て」にわたしたちが関わることはできませんが、できるだけ広く関心を持ち、何か一つでも「義」を周囲に示すように生活することを心がけたいものです。
じゃあ具体的にはどうすればいいのか、と言うと、単純に今している仕事が、人のためになる仕事であるならばそれをしっかり行うのがいいと思います。そして何より、それが「神さまから与えられた、神の義を示す仕事だ」と思いながらやることです。その上で、もし余力があるのなら、周囲に親切に振る舞ったり、「誰かのための」働き(ゴミを拾ったり、片付けたりなどなど)をしてみることです。こういった一つ一つの普段の振る舞いが、わたしたちの「義」を示す機会となるでしょう。わたしたちの「義」をちょっとずつでも示しながら、神さまに示された道を歩んでいきましょう。