見つけにくいものですか
ルカによる福音書 15章1~10節
今日読まれた福音書は2つの「無くしたものが見つけられた」お話。羊、そして銅貨が見出されます。このお話で大事なのは「たとえ話である」ということです。何をたとえたのかと言えば、「罪びとが悔い改める」ということ。神さまに従う道から逸れてしまった人が再び神さまの道を一緒に歩くことができるようになったということです。だからこそ神さまが喜ぶ、そして「宴」が必ず行われるのです。
探し物をするとき「いつ失くしたのか」ということがわからないとなかなか見つけることができません。当てもなく探すのは大変ですし、たくさんの時間がかかります。銅貨の場合は転がってしまったり、自分が別の場所においてしまったりしてわからなくなってしまうので、自分がそのことを忘れなければ見つけることができるでしょう。銅貨は自分では動きませんしね。でも、羊の場合は違います。羊は意志を持っていますから、自分で道をそれてしまうこともあるし、本人的にはちゃんとついていっているつもりでも気が付かずにそれてしまうこともあります。こうなってくると探すのはとても大変です。しかも羊は自分で動くこともできますから、ますます探すのが大変です。
わたしたち人間はどうでしょう。神さまから見たら「羊」でもあり、「銅貨」でもあるのかもしれません。当然、わたしたちは意思を持っていて自分で考えて動きます。自分で神さまについていくことができます。でもそれていることに気が付かなったり、自らそれてしまったりすることもあります。一方で、神さまはわたしたち人間を「置き」ます。「ふさわしい」と神さまが思ったところに置くことがあるのです。ところがそれを神さまが「見失って」しまうこともあります。こうやって世界中の様々なところで「神さまによって」「人が」「見失われて」いるのです。
だから神さまはいつも「探して」いるのです。「見つけにくいもの」かもしれませんが、「失ってしまった」「人」を探しているのです。それはとても「見つけにくい」ので、だからこそ天に喜びがあるとイエスは表現しました。「神さまの道をそれない」というのはわたしたちにはなかなか難しいことです。だってよくわからないんですよ。「いつそれてしまったのか」「どれが正しい道なのか」本当によくわかりません。わたしだって「こうしたらいい」というようなことを言っていますが、本当にそれが正しいのかはわかっていません。もしかしたらわたしがみなさんをそらしているかもしれません。
でも、わたしたちのところには必ず、神さまが探しに来てくれます。なぜなら神さまはいつも「見失った」人を探しているからで、それはわたしたちも対象なのです。だからわたしたちはいつも安心して、神さまの導きに自分の意思で従っていくことができるのです。そして、従っているつもりで安心して「間違えて」も「逸れて」もいいのです。神さまがわたしたちを「見つけ出して」くれるからです。もちろん、なるべく逸れないように頑張りたいものですけど。
逸れないために大切なのは、導き手、飼い主である神さまをいつも見ることです。どうやって見たらいいのかと言えば、「祈り」「礼拝」そして「聖書」です。こうやってともに祈りをささげることで、神さまの後を迷いなく従っていけますし、万が一逸れてしまったとしても、神さまが必ず探しに来ることを信じることができるのです。神さまに導かれて、これからも歩み続けていきましょう。