言祝ぐ

2022年07月03日

ルカによる福音書10章1~12,16~20節

 今週の福音書は「72人を派遣する」お話。イエスが72人を任命して、イエスが行く予定の町や村に先に派遣します。その際の様々な注意事項をイエスは72人に伝え、彼らは喜んで帰ってきます。

 「派遣」という言葉は、一般的にあまりいい意味に使われていないように思います。「あの人は「派遣」だから」という「派遣社員」のような使われ方ですね。別の所から助っ人的にやってくる、という印象がついてしまったようにも思います。でも、教会の言う「派遣」は全然違う言葉です。「わたしたち一人一人をイエスさまが「神さまのことを伝えるように」とそれぞれの地に送り出す」という意味合いがあります。じゃあ、そのわたしたちはどうしたらよいのか、ということが書いてあるのが今週の聖書箇所でしょう。

 財布も袋も履物も持って行くな、というのは現代において厳しく感じます。すごく具体的に書いてあるので、言葉一つ一つにこだわってしまいますが、大切なのは「派遣しているのは神さまである」ということです。ですから当然、神さまが「派遣された人」の行く道の配慮をしてくださるはずなのだ、ということ。そして、それに信頼しなさい、ということです。何も持たずにいても、神さまが必要な時に備えてくださる、と信じることです。そして何より大切なのは、目的地=家についたとき、「あなた方に平和があるように」と言いなさいとイエスが言ったことです。この「平和」は、わたしたちの言う「平和」とは少し違います。文中でも言われていますが、その「平和」はその人のところに飛んでいってとどまったり、ふさわしくないと感じたら戻ってきたりするものなのです。

 日本の古い言葉に「言祝ぐ」(寿ぐ・祝ぐ)という言い回しがあります。お祝いの言葉を口に出して祝福するということなのですが、ただ単純にお祝いの言葉を口にするということではなくて、「言霊」という考え方を反映しており「口に出された祝福が飛んで行ってその人を祝う」というような意味があります。こういう考え方は古代では万国共通のものなのかもしれませんね。

 目的地=家に行って最初に「あなた方に平和があるように」と口にするのは、その家とそこに住む人を祝福するためのものです。なおかつ「祝福」自体が判断する(平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなた方に戻ってくる)のですから、むしろどんどん祝福したほうがいいのかもしれないなと思います。わたしたちが「この人は祝福されるにふさわしいのだろうか」と考えなくてもいいのです。むしろ「この人はふさわしくない」と勝手に裁いてしまうことの方が問題かもしれませんね。

 「祝福」されて嫌がる人はあまりいません。少し遠慮する人はいるかもしれませんが、「祝福」は本来神さまが人に与えてくれたものです。とどまるかどうかはその人次第です。だから、世界はどんどん祝福されたほうがいい。少なくとも、どんどん呪われるよりはよいのです。「祝福」と「呪い」はどちらも口から出るものですが、全く逆の働きをするものです。ですから、キリスト者の生活とは「祝福」から始まるのだと思います。言葉に出して「祝福」することで、わたしたちの周りにあるものがはっきり見えてきます。今目にしている物、今使っているものに祝福をすることも大切です。

 でも、イエスは言います。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない」 そう、わたしたちが口にする「祝福」は本来神さまからものです。わたしたちが先に神さまから「祝福」を与えられているからこそ、わたしたちからも「祝福」が周囲に及ぶのです。ですから、自分の周りを「言祝ぐ」「祝福する」ことで、わたしたちは神さまのために働いているということができるのです。たくさんの「祝福」を周りに届けながら、今日も明日も、歩み続けていきましょう。


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