「「既に」と「未だ」の間に」
ルカによる福音書 6章17~26節
顕現後の週も6回目に入り、本日の福音書はイエスの「平地の説教」と呼ばれる場面です。似たような言葉の箇所はマタイとマルコの福音書にもあり、マタイによる福音書では8つの「幸い」をあげて人々を慰めますが、ルカは「幸い」の後に「災いだ」という言葉を付け加えています。というより、4つの幸いと4つの災いが対比されているのですね。「幸い」が祝福の言葉であるなら、「災い」は呪いの言葉で、「災いあれ」というのは「呪われよ」とも訳せる、少し強い言葉です。
この「幸い」と「災い」はどちらも現在のことも将来のことも言っています。「あなたがたは満たされる」というのは「今満たされる」ということでしょうし、「笑うようになる」というのは「将来そうなる」ということですね。「もう慰めを受けている」というのは「今受けている」ということですし、「飢えるようになる」というのは「将来そうなる」ということですよね。だからこの「幸い」も「災い」も「現在のことを言っているのだ」とか「いや、将来の警告なのだ」と単純に割り切ることはできないようです。
イエスはなぜ、こんな形で言ったのでしょうか。一つ大切なのはイエスがちょっと前で「神の国は実現した」と言ってのけたことです。そしてイエスはそのためにこの世に来たと宣言しています。だから「貧しい人」は「幸い」でなくてはならないと、「飢えている人」が「満たされなくてはならない」と言い、「泣いている人」が「笑うようになる」ことを目指し、「憎まれるとき」に「喜びなさい」と励ましています。これはそういう境遇にいる人々に対して、自分が今ここに来たからには「既に」起き始めていることであるし、「これから」起きることでもあると言っているのです。それとは逆に「富んでいる人」に「災いあれ」というのは、その人たちがそこにいるとは限りません。むしろ貧しい人々、飢えている人、泣いている人を慰めるためにこういっているのだと思います。「今」目の前にいる人に対しての慰めを大切にしているのです。そして「災い」も、今始まることであり、将来起こることでもあると言ってのけているのです。イエスの言う「天の国」は「既に」始まっているものであり、「未だ」出来あがっていないものです。イエスはこの宣言を通して、わたしたちにその狭間にある「今」に目を留めるように促しています。
わたしたちは「既に」起きたことと「未だ」起きていないことの間に生きています。当たり前のことですけど、わたしたちは結構そのことを忘れがちです。過去に起きた出来事にとらわれて動けなくなる人がいます。逆に将来のことを心配し過ぎて動けなくなる人もいます。逆に過去があるから動ける人もいるし、将来に夢を抱いて動く人もいます。しかしその一方で「今」が無くなっている人が結構いるような気がします。
「天の国」はすでに始まっています。そして、未だ完成してはいません。小さな範囲では出来上がっているようであり、全然まだまだなところもあります。「今」に目を留めれば、わたしたちにできることはたくさんあるように思います。イエスの弟子になるというのは「既に」と「未だ」の間にある「今」に目を留め、もし自分にできることがあるのならやってみて、「天の国」を少しずつ広げていくことであろうかと思うのです。「今」泣いている人に将来の約束は無意味かもしれません。でもそこで差し伸べられる手によって慰められる可能性はあります。そしてそれは「ただ一緒に座ること」だけでもよかったりするものです。自分の周りの「今」に目を向け、「未だ」来ていない「天の国」を「既に」来たものに変えていくようでありたいものです。