「派遣」される
マルコによる福音書 6章7~13節
本日の福音書は「十二人の派遣」。イエスが十二人の弟子たちを二人一組で派遣します。彼らはイエスの指示通りに出かけていき、悪霊を追い出し、病人をいやします。出かけるときは杖一本を持ち、他のものは何も持たずに出かけるように言われます。また、イエスは受け入れられなかった場合は足の塵を払い落としなさいと伝えます。
「派遣する」とわたしたちが聞くと「仕事をしに行ってくる」みたいなイメージがあるでしょうか。すっかり定着しましたが「派遣社員」なんて言い方もありますよね。その「正社員」ではなくて、事務などの特定の仕事をする、よその、例えば人材派遣会社などから来ている人のことですね。だから正社員よりもちょっと下に見られたりすることもあるみたいです。派遣の期間が終わると仕事が無くなったり、仕事を紹介してもらえないと無職同然だったり、ちょっと立場の弱い労働者という側面もあろうかと思います。
イエスの時代に「派遣する」と言った場合は今とは全然違います。聖書にはわざわざ「汚れた霊を追い出す権能」を授けたと記されていますが、基本的に「使者」「派遣された者」というのは、「派遣した人」と同じだと考えられるのです。派遣された人をないがしろにするということは、派遣した人をないがしろにすることと同様であり、「派遣された人は派遣した人と同じ力を行使する」と考えられていました。「派遣される」ということがものすごく重いのですね。ただ「代わりに」来たということではなく、同じ力を持っているとされたのです。だから「王」が「派遣した」のであれば、その人を「王」と同じに扱う、もてなしでも言葉遣いでも、ことが必要だとされました。弟子たちは「イエスの汚れた霊を追い出す権能」を与えられたわけですから、「汚れた霊」は出ていくのです。そしてこの時代、病気はウイルスやら菌やらが起こすなんて知られていません。「汚れた霊」が病気を引き起こすとされていました。だからその力があれば病気をいやすこともできたわけです。こうやって弟子たちは「悪霊を追い出し、病をいやした」のです。
この「派遣」というイメージは、礼拝においてとても大切なものです。礼拝の最後に「ハレルヤ、主と共に行きましょう」「ハレルヤ、主のみ名によって、アーメン」という唱和をします。これを「派遣の唱和」と呼ぶのですが、この唱和によって、わたしたちも十二人の弟子たちと同じようにイエスに派遣されていると言われたらどう思いますか。ちょっと責任が重いような気がしますね。
わたしたちは主によって「派遣」されています。え、十二人という特別な人たちだけじゃないんですか、と思うかもしれませんが、違います。主によって選ばれた十二人に特別な技能のある人はいません。この十二人はイエスの生きていた時代でも、どちらかと言えば学の無い、貧しい、手に職があるんだかないんだかわからない、この時代における普通の人たちでした。わたしたちと同じです。いやむしろ、わたしたちのほうが彼らに比べて学はあるかもしれませんよ。イエスの派遣というのは、特別な人に対してのものに見えますが、実はわたしたちキリスト者すべてに及ぶものなのです。
わたしたちは洗礼を通して聖霊を受け、イエスの命令によってこの世に派遣されているのです。イエスの命令によって、「福音」=「良い知らせ」=「イエスのこと」をこの世に知らせる使命を持って、この世に派遣されているのです。もちろん、今、わたしたちは「汚れた霊を追い出す権能」があるわけではありませんが、「福音を伝える」ことも「イエスのしたように」行うことはできるのです。だからわたしたちは「イエス・キリスト」を携えてこの世に派遣されているのです。