けがれを越えて
マルコによる福音書 7章1~8,14~15,21~23節
本日の福音書はマルコに戻り、イエスとファリサイ派の人々との「汚れ」に対する論争が描かれています。手を清めずに食事をするイエスの弟子たちに対して、ファリサイ派の人々がかみつくのですが、それに対してイエスが「人の外から入るものが人を汚すのではなく、人から出るものが人を汚すのだ」と言い放ちます。ここで注意しておかなくてはいけないのは、別にイエスやファリサイ派の人々は「衛生」の話をしているのではないということです。「衛生」ではなく「穢れ」の話をしているのです。漢字だけを見ると「汚れ(けがれ)」と「汚れ(よごれ)」を一瞬混同してしまいそうですが、そこに気をつけて読んでいきましょう。
古来、様々な宗教には「清め」の概念があります。「清い」ものと「汚れた」ものを分けて、「汚れ(けがれ)」を清めるのですね。日本でも神社の社の近くに手水所があり、手を「清めて」から参拝するものです。ファリサイ派の人々の言う「手を念入りに洗う」というのはこういうことで、外は汚れているので家に帰ってから身を清めたり、手を清めて食事をしたりすることで「汚れ」を体に取り込まないということなんですね。特に市場は「異邦人」のいるところなので特に汚れているから、というわけです。わたしたちの聖餐式にもこれは微妙に残っていて、わたしが指先を聖餐式中に水で清めるんですが、それはイエスさまの体であるパンを手で触るためにそうしているんですよね。それで「汚れ(よごれ)」が取れるとか取れないとかではなくて、「清める」ためにしていることです。
衛生の概念を知っていると、イエスの言葉にちょっと抵抗があるかもしれません。例えばウイルスや毒物などは人間の外から入って人間を病気にしますよね。だから「そんなことはない」と思ってしまいそうです。でも、繰り返しますがこれは宗教的な「汚れ」の概念の話です。イエスは食べ物は、神さまが人間に「食べてよい」と与えられたものだから「清い」のであり、人間は神さまが作ったので「清い」のだと言っているのです。それはどんな食べ物でもそうですし、人種や国籍や宗教や思想などで分けられるものではありません。また、決まりを守っているかどうかで分けられるものでもありません。それを衛生的に調理するかどうかは関係ありません。人間が自分を清潔に保っているかどうかは別に気にしておりません。清める水だって、この時代ですから川から汲んできたり、井戸から汲んできたりした水で、別に煮沸消毒しているわけではないので、きれいかどうかはわかりません。でも、それは関係ないのです。「決まりを守る」ことではなく「その人を見よ」とイエスは言っているのです。
イエスの指摘した「人から出てくるものが人を汚す」というのはとても大切なことだと思います。わたしたちは必ず「排泄」をします。それは衛生的にもきれいではありませんし、それに触れば「汚れ(けがれ)」るし「汚れ(よごれ)」ます。そして「人の想い」も時に人を「汚し(けがし)」ます。人の心から出てくるものが人を汚す、というのは大切な見方です。自分の心の中に、一片も人を汚すような感情がないという人はいないでしょう。誰もが瞬間的にでも悪意を持つ可能性があります。し、持っていたりもします。意識していなくてもそうなってしまうこともたくさんあります。ただ「自分もそうなるかもしれない」と思っているのと「絶対大丈夫」と思っているのでは違いますよね。「汚れ(けがれ)」と「汚れ(よごれ)」の境目を見極めつつ、自分の中にも「汚れ(けがれ)」があることを見つめながら、意味のない清めにこだわるのではなく、イエスの言ったように、神さまがおつくりになったものを「清い」としながら、進んでいきましょう。