すべての人に言うのだ
マルコによる福音書 13章33~37節
本日の福音書ではイエスが「気を付けて、目を覚ましていなさい」と弟子たちに告げている場面です。このマルコによる福音書の13章は「小黙示録」とも呼ばれ、このような終末のイメージが語られます。世の終わりはいつ来るかわからないから気を付けていなさいということですね。イエスは繰り返し「目を覚ましていなさい」と語っていますが、物理的に「ずっと起きていろ」というわけではないのは、繰り返しお話ししている通りです。どんな生き物でも、ずっと起きていたら死んでしまいます。「目を覚ましていなさい」とは、わたしたちの心の目を覚まして、「いつ神さまが来てもいいように準備していなさい」ということですね。その時だけつじつま合わせをすればいいということではなくて、試験前に一夜漬けするようなことではなくて、普段から神さまと人を大事にしながら生活することです。
マルコによる福音書は、最初に書かれた福音書です。それでも、どんなに早く書かれたと仮定しても、イエスの死後30年は経過しています。イエスが言い残した「終わりの時」「終末の時」はいつ来るのか、イエスの弟子たちや信じる人々にとって主要な関心事でした。だってそうですよね。もしその時が「明日」なのだとしたら「もう何をしても無駄」と考える人は結構いるでしょう。歴史的にもそのような絶望に取り込まれたことでたくさんの悲劇が起きました。また、多くの人が「どうしよう」と真剣に考えることでしょう。かつて1999年に「ノストラダムスの大予言」がまことしやかにささやかれたとき「その日の前に全財産を散財した」という人が結構いたのを覚えていますし、テレビなどでたくさん話題になっていましたね。「明日世界が滅ぶとしても、今日わたしはリンゴの木を植える」と言ったルターのように行動する人がいないとは言いませんが、どちらかというとわたしたちは右往左往してしまうのではないでしょうか。まぁ、ノストラダムスの時も、この聖書の言葉が書かれた時も結局何も起こらなかったのですが、当時はもっと切迫感のある言葉だったということです。けれども「焦らずに、普段と変わらないようにしよう」「いつ神さまが来ても大丈夫なようにしておこう」と呼びかけることで、わたしたちがなぜ生きているのかを思い出させたのです。わたしたちは「神の似姿」であり、「神に向かって」生きるものです。「焦り」や「恐れ」はそのことをわたしたちに簡単に忘れさせ、刹那的な生き方へとわたしたちを誘います。
ここに書かれていることは大切なことだと思います。特に「あなたがたにいうことは、すべての人に言うのだ」という言葉です。聖書の言葉は神の言葉であって、すべての人に語りかけているものだからです。聖書の言葉を読むとき「いや、これは弟子たちが言われたことであって、わたしたちはそのことはよくわかっているから大丈夫」と思ってしまうことがあります。しかしもし、わたしたちがその時その場にいたとしたら、イエスに叱られた弟子たちのようにふるまってしまうことでしょう。そうならない自信は、わたしにはありません。だから、聖書を読むときは「これはわたしたちに向けられた言葉だ」と思うことが大切で、さらに言えば「自分以外のたくさんの人に向けられた言葉でもある」と、頭の片隅においておくことが必要です。実はこのことが、わたしたちが教会を構えて、人々に、少々うざがられることもありながらも聖書の言葉を語る根拠の一つでもあるのです。
今日から降臨節が始まります。降臨節はクリスマスに向かう準備の時であり、わたしたちが「待つ」ためにすることを思い出すときです。いつも通り、わたしたちの心をあげて、クリスマスと、主の再臨を待ち臨みましょう。