その激しい部分をも
マタイによる福音書10章34~42節
今週の福音書では、イエスが「私が来たのは地上に平和ではなく、剣をもたらすためだ」と語ります。わたしたちは教会で「平和」について語りますし、イエスというと「優しい」とか「平和」というイメージがありますよね。「剣」とか「敵対」という言葉がなんとなくなじみません。そんな平和的なイエスさまは受け入れられない、と思ってしまいます。しかし聖書をよく読んでみると、イエスは別にいつも優しく平和的なわけではありません。いわゆる「宮浄め」の出来事のように大暴れすることもあるし、激しく弟子たちを叱責することもありますし、厳しい言葉で話すこともあります。「優しいイエスさま」という側面だけでは決してないのです。
人にはいろいろな側面があります。ある場面では穏やかでも、状況によって激しい一面を見せることがあります。話しているときは穏やかに話していても、文章になると攻撃的になる人がいます。とても理性的にふるまう人だと思っていたら、ある場面になると人が変わったようになる人がいます。「ハンドルを握ると人格が変わる」という言い方をすることがありますが、本当に「人にはいろいろな側面があって、どれもその人だ」という認識が大切なのかもしれません。人付き合いをする上では「人には知らない面がある」と思っていた方がいいのかもしれませんね。
わたしたちはイエスの激しい側面に出会うと、少し戸惑ってしまいます。しかし一方でその激しさもまたイエスなのです。神さまも、すべてを包み込んでくれる大いなる神という側面もありますが、災害などをもたらす激しい神さまでもあります。旧約聖書には「熱情の神」という呼びかけがありますが、それだけ激しい部分もあるということなのです。
イエスは「私を受け入れるものは、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」と言います。私をお遣わしになった方、すなわち父なる神のことですね。それだけでなく、預言者をも受け入れるように言います。預言者たちもまた、苛烈な生を生きていました。神に遣わされる過程で、非常に厳しい物言いをしたり、受け入れがたい習慣を持っていたりします。ホセアやエゼキエルなど、ちょっと近くにいたら引いてしまいそうな生活を送っていた人もいます。それでも「預言者」すなわち「神の言葉を預かった者」として受け入れるということです。なかなか難しいものですよ。どう考えても。でも、考えてみれば、自分にとっていい状態「優しい状態」の時だけ神さまを受け入れて、自分に厳しくされたら遠ざけるというのは、あまり良いことではないような気がします。人生の中で厳しい時期は必ずありますが、だからと言って人生を降りるわけにはいきません。イエスを信じる道は、必ず厳しい時期を伴います。それもまた信仰の道の一部であって、良いことばかり取るわけにはいかないのです。
「イエスの弟子である」という理由で人を受け入れる時、時に理解しがたい人物に出会うことがあります。しかも、こちらが攻撃を受けたりもします。それでもなお、わたしはそういった人を受け入れることができるだろうか、と時々自分に問いかけます。もちろん無理をしろと言うわけではありませんが、時に覚悟が必要な場面があるだろうというのは考えておいてもいいと思います。
イエスを受け入れる時、その激しい部分をも受け入れる必要があるのです。でも大丈夫。それは必ず報いられるはずです。イエスがそう言っていますから。だからこそ、わたしたちもイエスに信頼して、激しい部分をも受け入れながら、道を歩み続けていきましょう。