そんなことがあってはなりません
ルカによる福音書 20章9~19節
大斎節も第5主日に入ります。福音書からは「ぶどう園と農夫のたとえ」。神殿の境内で律法学者や祭司長たちとの論争の後、イエスが民衆に向けて語ったたとえです。ぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た主人が帰ってきて、収穫を納めさせようとします。ところが農夫たちは僕を追い返して収穫を納めません。主人は息子なら敬ってくれるかと思って送り出しますが、農夫たちは息子を殺してぶどう園を自分たちのものにしようと画策するというたとえ話です。このたとえを聞いた人々は「そんなことがあってはなりません」と反応し、イエスはここで「隅の親石」の話をします。これを横で聞いていた律法学者や祭司長たちは、自分たちに当てつけてこの話をしたことに気が付きますが、民衆の反応を恐れてイエスに手出しができなかったという流れです。
このたとえは一般的にはこう読み解けます。主人は神。ぶどう園はこの世界。農夫たちは律法学者や祭司長たち。ぶどうは人々です。そして僕というのは預言者たちで、息子というのはイエスのことであろうと推察されます。神がぶどう園を律法学者や祭司長たちに委ねて旅に出ます。帰ってきたので人々が神のほうを向くように預言者たちを送ったけれども律法学者や祭司長たちが追い返してしまい、最後には神の子であるイエスをも殺そうとたくらんでいる、というところでしょうか。まず間違いなく、民衆だけでなく律法学者や祭司長たちに向けても語っているたとえ話です。
このたとえはマタイにもマルコにも載っているのですが、それぞれ聞いた人々の反応が微妙に異なります。マタイでは「その悪人どもをひどい目に合わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸し出すに違いありません」と言い、マルコでは反応はなく、イエスが結論も含めて語り続けます。そして今日のルカでは、イエスが結論まで言うのはマルコと一緒ですが、それに対して「そんなことがあってはなりません」と民衆は反応しているのです。さて、民衆たちの反応の「そんなことがあってはなりません」という言葉はいったいどこにかかるのでしょう。この話全体でしょうか。それとも「農夫たち」の振る舞いがあり得ないということでしょうか。それとも「ぶどう園をほかの農夫たちに貸す」ということなのでしょうか。
「そんなことがあってはならない」という感想はわたしたちが様々な場面で抱く感情です。様々な事件、戦争、事故、災害、それに人の言動まで、わたしたちは多ければ一日一度はそういう感情を抱きます。しかし一方で、気が付かないうちに「そんなことがあってはならない」と思うことを起こしてしまったり、巻き込まれてしまったりもします。実際、この民衆たちも「そんなことがあってはなりません」とこのたとえを聞いていながらも、イエスに向かって「十字架につけろ」と叫んでしまったのです。おそらく叫んだ時、民衆たちは「自分は正しいことをしている」と思っていたはずです。しかしそれは、ぶどう園のたとえで「息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまった」と表現されている行動に加担する結果となりました。
これを「民衆が間違えたのであって、わたしたちは大丈夫」と思うのであれば、わたしたちは必ずや民衆と同じ道をたどることでしょう。何度も何度もイエスを十字架に付けることになるでしょう。「そんなことがあってはなりません」という行動を「わたしは絶対にとらない」と思っても、わたしたちは間違えてしまうのです。どんなしっかりした人であっても同じことです。むしろわたしたちは「正しい道を選び続けることはできない」と思っているほうが良いでしょう。だからこそこの大斎節という時期に、わたしたちは自分を見直すのです。そして神さまが助けてくれることを祈るのです。