ただ信じなさい
マルコによる福音書 5章22~24,35~43節
本日の福音書は「ヤイロの娘」。会堂長であったヤイロが、娘が死にそうだとイエスに助けを求めます。イエスと一緒に家に向かいますが、すでに娘は亡くなっており「もう来なくても大丈夫です」と言われてしまいます。しかしイエスは「死んだのではなく、眠っているのだ」と言い、ヤイロの家に行って少女に「タリタ・クム」と呼びかけると少女は起き上がるのです。
ヤイロがどのようにしてイエスのことを知ったのかはわかりませんが、まっすぐにイエスのところにやってきて足元にひれ伏します。「どうにかして助けてほしい」「助かるためなら何でもする」という気持ちだったのでしょうか。とにかくイエスを信じてしきりに頼んだと記されています。だからこそイエスもヤイロと一緒に出掛けていきます。しかしここで横やりが入ります。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」とヤイロの家から来た人々が言うのです。「もう無駄だから来るな」というわけですね。あるいは「間に合わなかったのか」という意味も込められていたかもしれません。でもイエスは止まらず、ヤイロの家に行こうとします。ここで大切なのはヤイロがそれを止めなかったということです。ヤイロにとっては家から来た人たちのほうがよく知っている相手でもありますし、初めて会ったイエスに比べればその言葉を信じやすいでしょう。でもヤイロは身近だった人々ではなく、イエスのことを信じ、自分の家に向かうイエスに従います。
そこでイエスが「子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と言うと、人々はあざ笑います。しかしヤイロはそれでもひるみません。イエスは子どもの父母、つまりヤイロ夫妻とペトロ・ヤコブ・ヨハネだけを一緒に連れて子どものところへ行き「タリタ・クム」と声をかけ、子どもを起き上がらせるのです。イエスが奇跡を行うとき、信じない者たちを遠ざけることがありますが、ヤイロはイエスの「恐れることはない。ただ信じなさい」という呼びかけに従って、周囲の声ではなく、最後までイエスを信じて、何も言わずに付き従ったのです。
現代は「信じる」ということが難しい時代のように思います。特に宗教的なことに関してはなおさらでしょうか。現代は入ってくる情報が多く、迷う原因もたくさんあります。ヤイロの周りの人たちのようにあざ笑ったり、「もう必要ないよ」と言ってきたりする人たちの声も、昔よりたくさん耳に入ります。わたしたちはイエス・キリストを「ただ信じて」ついて行っているのですが、周りの人たちから見たら「狂信者」に見えているのかもしれません。しかも、オ〇ム真理教や統〇協会といったカルト宗教団体の事件があったこともあり、ますます宗教的に「ただ信じて」ということが理解されにくくなっていると感じます。場合によっては教会がカルト化してしまう危険も指摘されています。しかし、それにも関わらず、わたしたちに大切なのはやはり「ただ信じる」ことであろうと思うのです。そこで大切なのは、特定の指導者などではなく、イエス・キリストを信じること、神を信じることだと思います。自分で見て、願って、ついていくのです。
ヤイロは周囲の人たちの無理解を、あるいは妨害を越えて「ただ信じる」姿勢を示しました。彼自身は最初に「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と言って以降、発言はしていません。しかし、イエスの言葉を聞いて、娘がイエスの言葉によって立ち上がるまでついてきました。「ただ信じる」ことを自分の行動によって示したのです。ヤイロのように、イエスを「ただ信じて」ついてくことを大切にしていきたいと思います。