できない人々に寄り添う

2023年11月05日

マタイによる福音書 23章1~12節

本日の福音書ではイエスが律法学者やファリサイ派の人々を非難します。彼らの言うことは正しいが、行いは見習ってはならないとイエスは言います。そして「あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい」と多くの人に伝えます。

どこでもそうですが、有言実行の人や言行一致の人ってそれほど多くないのではないかと思います。わたしたちの中で、普段の言動と行動が完璧に一致している人はほとんどいません。わたしだって、口でこうやって説教をしていますが、それができているかと言われると、正直なところできてはいません。もちろん、イチかゼロかの話ではなくてある部分はできているでしょうし、できていない部分もあるということです。それは誰でも同じことだと思います。むしろ、全部完璧にできるのならそれは「神」です。

そう考えるとイエスの言ったのもうなずけます。ファリサイ派の人々もそれは同じです。言っていることは正しくても、行いは正しくなく、矛盾しています。ファリサイ派の人々は「律法を守る」ことを至上としていました。だからこそ研究を重ね、わかりにくかった伝承を「守ることができる形」にできたのです。ところが、一つ一つは小さな決まりだとしても、集まるとそうではありません。守りづらいことも出てきます。時代も状況も変わります。細かく規定することで遊びが少なくなってしまっているといえるのかもしれません。けれども、彼らの研究は確かにしっかりしている。だから言っていることは守っても、やっていることをマネしてはいけない。これって、多くの指導者にも言えることで、口では正しいこと言っているけれども、実際にはできなかったりすることってよくありますよね。ただし一方で指導者的な立場に置かれる人は、それに甘えて「できなくてもいいのだ」というわけにはいきません。自分たちが言行不一致なことをわかった上で「指導する」という役割に殉じることが必要です。そして、みんな同じ人間であり、「誰もが完全に言行一致・有言実行はできないのだ」という大前提を崩さないことが大事です。自分たちだってできないのに厳しくしすぎてはいけないし、ファリサイ派の人々はこれができていませんでした。自分たちも守れていないのにそれを押し付け、それどころか自分たちを「偉いもの」と扱うことを望んでいたのです。

昨今、様々なところで「言行一致」がかなり激しく求められている気がします。政治家も芸能人もそうですが、事件は事件、事績は事績、やったことはやったこと、とちゃんと分けた方がいいような気がします。「誰も完璧な人間はいない」のです。そして、一度何かをしてしまった後で立ち直る機会が与えらえるかどうかというのも大切だと思っています。

なるほど、当事者が許せないのはわかります。それは当たり前のことですし「赦さなくてはいけない」と思うことはありません。一方で、周囲の人たちがやいのやいのと言うのはどうなのだろうと思うことがあります。ただし、何をするにせよ「人は完璧ではない」ということを前提にしておくことです。わたしたちはどんなに完全に決まりを守ろうと思っても、「神」のようにすべてを完璧に行うことなどできないのです。そして、決まりからは必ず、守ろうとしても守れない人たちが出てきてしまいます。守るつもりがない人はともかくとして、「できない」ことがあるのを理解しなくてはなりません。イエスは「守れない」人たちとともにありました。わたしたちは、自分が「守れる」人でも「守れない」人でもあるということを受け止め、多くの人とともにありたいと思います。今日これから送る「収穫」も、生きるのが大変な人たちのために届けましょう。


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