ともに軛を「負う」

2023年07月09日

マタイによる福音書11章25~30節

 今週の福音書では、イエスが「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と語ります。「私の軛」は軽いとイエスは言います。

「軛」は、基本的に牛や馬などの動物に重いもの(例えば車など)をつないで引かせるために使います。牛は比較的簡単な軛で鋤や車をつなぐことができたので古くから農耕に利用されてきましたが、馬の場合は正しく軛を装着しないと息が詰まって本来の力を出すことができなかったようです。また軛は普通2頭の牛馬をつないで使うことが多いものです。牛や馬をつないで重いものを引かせることから転じて「支配される」という意味でつかわれることがあります。「タタールの軛」という言葉が有名ですが、これは昔のロシアがモンゴル帝国の支配を受けていたことを指します。

イエスは何を指して「重荷」と言っていたのでしょうか。一つは「律法」のことであろうと思います。イエスは「律法」に対して様々な形で言及していました。律法は本来神さまと人間とを「つなぐ」ためのものです。正しく装着すれば人ひとりの力ではできない大きな荷物だって引くことができる。大きなことを成し遂げることもできます。正しい意味での「軛」は、誰でも神さまとのつながりという意味においてつけているものなのです。イエスも「神の子」として、その軛を付けています。しかし、その意味が変わり「律法を守らなくては人ではない」という状況になればそれは「重荷」に変化してしまいます。律法に「支配される」ものになってしまうのです。「知恵のある者や賢い者」たちはそれに気が付かず、むしろ「幼子たち」のほうが素直に「律法が本来意味していたこと」をくみ取っています。イエスは自分のことを「柔和で心のへりくだった者」と言っていますが、そのイエスに学んで「律法が本来意味していたこと」を取り戻すことが大切だというのです。

そして何より大切なのは、それが「軛」だということです。「軛」は多くの場合複数頭の家畜を結びつけるものです。自分一人で負うものではないのです。自分だけではなく、仲間たちと、また「イエス」その人と一緒にわたしたちは「軛」を負っています。そしてその軛に「つけられている」のではなく「負っている」のです。一緒に並んで「軛」を「負う」ことによって、イエスから学び、わたしたちは「重荷」の意味を知るのです。そこでだんだんと荷が軽くなっていくのです。

そして「重荷」のもう一つの意味は、やはり「日々の生活」なのだろうと思います。わたしたちは「日々」生活しています。ちっとも考えた通りにならないし、やろうと思っていたことはできないし、自分の体すら思い通りにならないこともあります。周囲の人とも決していつもうまくいっているわけではありません。日々の生活が、わたしたちの上に重くのしかかってくるかのように感じられることもあります。しかし一方で、わたしたちの命は神さまから与えられたものです。だからわたしたちが生きているこの日々もまた、神さまが与えられたものなのです。生きていることが、時に「重荷」としか考えられなくなることがあります。でも、わたしたちがそうならないように一緒に「軛」を持って同じ方向に向かってくださるのがイエスです。わたしたちの日々の重荷をも共に担ってくださるのです。そしてわたしたちはイエスに学び、イエスの生き方を知り、わたしたちの荷もだんだんと軽くなってくるのです。

わたしたちは一人ではなく、一人に見えても必ず横にイエスが歩いています。そんなイエスを日々見つめて、歩み続けていきましょう。


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