どこから得たのだろうか
マルコによる福音書 6章1~6節
本日の福音書は「ナザレで受け入れられない」とタイトルがつけられており、イエスが故郷のナザレに行った時の様子が描かれています。ナザレの人々はイエスのことを「よく知って」います。「マリアの息子であった」「大工であった」「兄弟や姉妹も知っている」と、口々に言うのです。そして彼らはイエスについて「このようなことをどこから得たのだろうか」と訝しむのです。
よく言うことですが、わたしたちはみんな子どもでした。後から振り返ってみると、子どもの頃ってそれぞれかなりめちゃくちゃなことをしています。だから、子どもの頃のことを知っている人にはなんとなく頭が上がらない、となるのはよくわかります。一方で、誰もがかつて子どもだったのですから、一方的に笑うわけにはいかないとも思います。そして子どもは成長するものです。何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、人は成長し、変化していくものであり「男児三日会わざれば刮目してみよ」とも言う通り、びっくりするくらい変わることもあるのです。その成長は、こちらに見えている場所だけで起こるとは限らず、見えないところで成長することがよくあります。
ナザレの人々はイエスのことを「子どものころから」「よく知って」います。だから、彼らにはイエスが「マリアさんちのイエスくん」に見えているのでしょう。彼の大きな変化に気が付きません。なるほど、ナザレの人々が知らないところでイエスが変化したので、よく見なければ気が付かないのですが、彼らは「すでに知っていること」だけで判断しようとしてしまい、自分たちが会わないでいた間、つまりイエスがナザレを離れてからの変化に気づくことができませんでした。「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか」という問いは、まったく理解しようとしていない場合に出てくるものです。なぜなら、変化したのだからナザレではないどこかで得たに決まっているのに、その場所を問題にしているからです。どこで変わろうと関係ありません。「昔のイエスはできなかったが、今のイエスにはできる」ことを理解して、新しく関係を作り上げていけばいいのです。でも「こうして、人々はイエスにつまずいた」とある通り、それはできなかったのでしょう。
世間では結構こういうことがあるかもしれません。しばらく見ないうちに誰かがある技術を習得していた時、「どうやって得たのか」とか「どこで得たのか」を気にして、「その人ができるようになった」ことを見ようとしない、そんなことってないでしょうか。わたしたちが見なくてはならないのは、「何が起きたのか」であって「どうして起きているのか」は後から考えることです。そして、自分の見えている範囲がすべてではないことを忘れないことです。
神さまは世界中で働いています。当然のことですが、わたしたちの見えないところでも働いています。わたしたち自身にとっては自分の目の届く範囲、手の届く範囲が「世界」です。けれども神さまにとってはすべてが「世界」です。見えないところで起こったことが、わたしたちの前に現れた時、「そんなことは聞いていない」と拒絶するのか、「そういうこともあるんだ」と受容するのか、わたしたちの姿勢はどちらでしょうか。ナザレの人々はイエスが「神の子」となったことを「どこから得たのだろうか」という姿勢で拒絶しました。しかしイエスに従った人々は「こんな人もいるんだ」と思って受容しました。教会でもたくさんのことが起こります。自分の知らないところでたくさんのことが起こっていることを忘れず、多くのことを受け入れながら信仰の道を歩むことを大事にしましょう。お互いに多くのことを受け入れることで、神の国も進んでいきます。「受け入れられない」者ではなく「受け入れる」者になりましょう。