まことの光がやってくる
ヨハネによる福音書 1章1~14節
クリスマスおめでとうございます。本日は実際はちょっと早いですがクリスマスのお祝いです。先ほどの朗読はヨハネによる福音書の最初の部分です。「言は肉となって、私たちの間に宿った」と書かれていますが、これがクリスマスの出来事です。「言」というのは「神の言葉」のことであり、イエスのことを指しています。その「言」が「赤ちゃんとして、肉体を持ったものとして生まれた」ということを言っているわけです。
「神さま」はみなさんにとって身近でしょうか。話したり、触ったりできそうでしょうか。なかなかそう思えませんよね。昔の人たちも同様でした。神さまは、一緒にいると思っていても実体がなかったり、人と同じように感じたりするのではなかったりしていたのです。そこに「人と同じように」苦労して、「人と同じように」喜んで、「人と一緒に」過ごす神として、イエスさまはこの世にやってきたのです。しかも「赤ちゃん」というところが大切です。「赤ちゃん」は何もできません。できるのは泣くことくらいでしょうか。人にすべてのことを世話してもらわなくてはいけません。つまりイエスさまは、あまりきれいな言葉ではないですが、うんこやおしっこを漏らす神さまで、わけもわからず泣き叫ぶ神さまだったわけです。わたしたちもみんな赤ん坊だったことがあるわけですが、そう考えると「わたしたちもイエスさまと同じ」だったりするのです。その、「神さまは人間のことをよくわかっている」という感覚が大切だったということです。それは、いまのわたしたちにとっても同じです。
そして、イエスさまは「まことの光」として世にやってきました。「まことの光は世に来て、すべての人を照らす」と書かれていますが「まことの光」とはどういうことなのでしょうか。「光」にはいろいろなことができますが、一つはここにも書かれているとおり「ものを照らす」ことでしょう。そもそも、わたしたちは「光」がないと、何も見ることができません。どこかからの「光」がないと、目で見ることはできないのです。わたしたちが生活するうえで「光」はなくてはならないものです。「光」によって、わたしたちの見ている「色」もつけられています。色鮮やかな世界も、「光」によって出来上がっているのです。だから「光」ってとっても重要で、わたしたちが「おいしそう」と思う食べ物も、当たっている光の色が変わると、とたんに「不味そう」と感じます。他にも、わたしたちがついつい眺めすぎてしまうスマートフォンも、カラーではなく白黒だと、興味を失いやすくなるそうです。だから長時間で困るときに、色を変えることで使用時間を減らすことにつながると言われています。もし光がなければ、すべてを手探りでするほかはありません。もし、そうだったとしたら、わたしたちの文明社会は全然違うものだったかもしれませんね。わたしたちの生活は、まさに「光」によって成り立っていて、わたしたちの行動の根っこには「光」の影響が大きくあるのです。
神さまは「まことの光」で世界を照らすためにイエスをこの世に送りました。わたしたちは、自分で意識してもいなくても、その「キリストの光」に照らされています。まずできることは、わたしたちの行動を「キリストの光に照らす」ことです。一つ一つ、できることは少ないかもしれませんが、まず、自分と周囲の人を大切にしていくことです。イエスが周りの人に助けられながら活動したように、周囲の人と協力して過ごすことです。「わたしはこれ」と思えることは、神さまが「キリストの光」に乗せて、私たちのところに届けてくれます。今日がその始まりの日、クリスマスです。キリストの光に照らされて、これからの道筋を歩み始めたいと思います。