まだ迷ってもいいんです
ルカによる福音書 24章36~48節
イースターから2週間が過ぎ、復活節第3主日。本日はルカによる福音書から、エマオからの道の出来事の後、再びイエスが弟子たちのところに現れる様子が描かれます。現れたイエスが「あなたがたに平和があるように」と言うと、やはりまだすぐには慣れないのか、弟子たちは不思議がります。イエスはその弟子たちに対して、聖書を紐解きながら教えるのです。
「復活した」ということを飲み込むのは、それを信じているわたしたちにとっても結構難しいものです。弟子たちにとっても、いくらイエスの姿を目の当たりにしたとしても、すぐに飲み込むことは難しかったでしょう。どの福音書でも、疑う様子、恐れる様子が記されています。何か大きな出来事が起こっても、そのことが自分の中に納まるのに時間がかかることがありませんか。例えば「人の死」だったり、「大きな事故」だったり、そういった大きな出来事・変化のかなり後になってから感情が追い付いてきたり、実感がわいたりすることはよくあるような気がします。そう考えれば弟子たちの戸惑いは不思議ではありません。「死」も大きいのに、それを通り越して「復活」ですから、感情もジェットコースターみたいで、「うれしい」という思いと「ホントか」という思いが行きつ戻りつしているのが弟子たちの様子ではないでしょうか。
わたしたち自身の体験でも「そうはならんやろ」と思っても「そうなっている」ということはよくあります。「事実は小説より奇なり」とも言いますが、目の前で起こっているけど、どう受け止めていいのかということはよくあります。ここに座っているわたしたちは、洗礼を受けて信仰に連なっている、もしくはそのことを考えていたりするのだと思いますが、「洗礼を受けて信仰に至った」ということと「疑う」ことの間を迷いながら行きつ戻りつしているのではないかと思います。でも、わたしたちにとって心強いのは、復活日から2週間を過ぎても「迷い」「疑う」弟子たちの姿が、礼拝の中で「読むべき聖書の箇所」として示されていることです。かつて洗礼式は復活日(イースター)にしか行われませんでした。洗礼を受けた直後は「喜び」とこれでいいのかという「戸惑い」の間で迷っていることもあるでしょう。しかし、その「新人」たちに対して「まだ迷っていてもいいんです」と教会は呼び掛けているのです。そしてじっくり時を重ねて、迷いながらも信仰が成長していくことを大切にしているというメッセージだと思います。
さて、それではイエスの復活から2000年を経過した時代に生きているわたしたちはどう考えたらいいでしょう。まず一つは、確かに2000年を経過しているとは言っても、わたしたち自身がイエスに出会ってから2000年を過ぎているわけではありません。1年の人もいれば10年の人も、いやいやわたしは70年ですよという人もいますよね。ただの昔話ではないことを忘れないことです。そしてもう一つは、人は物事を受け止めて自分の中に「腑に落ちる」状況にする時間に個人差があるということです。それぞれの信仰の状況はまさに「十人十色」です。だからわたしたちは「まだ迷ってもいい」ということ、そして「信仰を比べてはいけない」ということです。そして最後に大切なのは、「それでも」イエスに従うことを大切にするということです。どう「イエスに従う」のかということは、人によって違います。でも、教会に足を運んだり、属したりしている人全員が、形は違っても「イエスに従おう」としていることが、この世界を神の国に変えていく第一歩なのです。