よくわからない理由で
ヨハネによる福音書 1章43~51節
本日の福音書はフィリポとナタナエルが弟子になる場面。「わたしに従いなさい」とイエスにイエスが「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った」とナタナエルを誘います。ナタナエルは一瞬躊躇しますが、「来て、見なさい」というフィリポの言葉に促されてイエスに会い、「まことのイスラエル人だ」と言われてイエスに従います。「従いなさい」と言われて従ったフィリポはともかく、「まことのイスラエル人だ」と言われて従うのを決めたナタナエルの「従った理由」というのがよくわからない、そんな話です。「いちじくの木の下にいた」はもっとわかりません。
イエスは活動のはじめに弟子を迎えます。「わたしに従いなさい」という言葉をかけて、どんどん弟子にしていきます。はっきりとその「勧誘」の場面が描かれているのはペテロたち4人の漁師、今日のフィリポとナタナエル、それに徴税人のマタイでしょうか。いずれも「わたしに従いなさい」という言葉で従っていて、現代の感覚からするとちょっと奇妙に思います。イエスは当時30歳です。それも「救い主」として活動を始めて間もなく、まだなんの実績もありません。「若造」と思う人もいるでしょうし、「おっさん」と思う人もいるでしょう。そんな彼に「わたしに従いなさい」と、仕事で作業中に声をかけられて、「ついていこう」と皆さんは思いますか。なんというか、「ちょっと怪しい」と思ってしまいます。このフィリポとナタナエルの話を読み返してみて、そしていろいろな解説書を読んでみましたが、このやり取りにはあまり決定的な何かを見出すことはわたしにはできませんでした。いったい、彼らは「なんで」イエスに従ったのでしょうか。わたしたちは聖書を読むとき、「イエス」が「救い主」であると知っていますし、彼らが「使徒」と呼ばれる人たちであることを知っていますから、「まぁそうなんだろう」と思うかもしれません。でも、彼らはこの先に起こることを知っているわけではなく、出会ったときのその短いやり取りだけで、その生業を捨ててまで従っていったのです。それが「よくわからない」のです。
わたしたちは生きているうえでたくさんの「選択」をします。何かを選んで何かを捨てています。はっきりとした「理由」があるときもありますが、「なんとなく」決めていることもあるでしょう。とりあえず「こう」だと決めてみたものの、「なぜ」そうしたのかと問われると、自分でも考え込んでしまうことがあります。すべてにおいて明確な「理由」を持って選ぶことができる人って、ほとんどいないのではないかと思います。「なぜそうしたのか」、その時にはわからなくても、後から理由がわかることもあるでしょう。そして、考え込んでみてもさっぱりわからないものもあるでしょう。フィリポにも、ナタナエルにも、そして他の使徒たちも、イエスに従った多くの人たちも同じです。よくわからない理由でイエスに従って、よくわからないまま十字架の出来事が起こり、自分たちが指導者になっていった。わたしたちもまた、はっきりとした明確な理由ではなく、じぶんでもよくわからないまま教会に足を運び、祈っているという人も結構多いのではないでしょうか。
教会の信仰は「明確な選び」を大切にする。ということになっています。でも本当にそうでしょうか。わたしたちの人生の選択って、きちんとした、誰から見ても正しい、明確な理由で決めたことより、なんとなく、流れで、よくわからない理由で決めていることが多いんじゃないかなと思います。その中で動いてみると、だんだんはっきりしてくるけど、やっぱり最後までよくわからない、そんなものだと思います。私たちの信仰も「よくわからない」かもしれませんが、それでいいのです。「はっきりしない」「もやもや」を抱えて生きていくことを大切にしたいと思っています。