わたしたちはひとつ
ヨハネによる福音書 17章20~26節
本日は復活節第7主日。昇天日の後の特別な日で、聖霊降臨日を待ち望む大切な日となります。福音書はヨハネから「最後の晩餐の後の祈り」の最後の部分です。イエスは「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」と祈ります。
この「ひとつである」というのは教会にとってとても大切な教えです。わたしたち人間は一人一人だととても弱いものです。一部分強かったとしても、なかなか一人で成し遂げられることは多くありません。しかし「みんなで」「力を合わせて」取り組むとき、これまでも人は多くのことを成し遂げてきました。古来より、人間は「集団」でいることによって強さを発揮してきました。肉食動物は多くの場合、自分だけで狩りをします。だから自分より弱い相手を見極め、一気に仕留めます。それに対して人間は「集団」で立ち向かったり、長い時間をかけたりして、自分より強い相手でも仕留めることができます。自分で道具を作ることができなくても、作れる人に作ってもらって作業をすることもできる社会を作り上げてきました。今はお金が介在しているので見えにくくなっていますが、作る人がいて、運ぶ人がいて、使う人がいる、という感じで様々なことを分業して大きなことを成し遂げることができるようになっています。なんというか、人間は「集団」でひとつの生き物のように生きています。まさに本能的に「わたしたちは一つの体」なのです。
そのことを忘れないために、わたしたちは「社会」を作り上げ、伝え続けてきました。教会においては何事も一人でするのではなく、二人または三人でするように定められています。「集団」で「ひとつの体」として振舞うことで、より安定して多くのことができるからです。しかし一方で、イエスの生きていた時代から2000年の時が流れると、社会は複雑化し、全容が見えにくくなってしまっています。そのために「個人主義」が広まってしまい、「集団で」「共に」することがかえって時代遅れのような、悪いことのような風潮も見え隠れします。しかし人間とは「集団」で「共に」生きるように創られているものです。最初は確かにアダム一人が創造されましたが、「助け手」としてイブが創造され、助け合って生きるものとされたのです。教会はそのことを忘れないため「すべての人を一つにしてください」と祈り続けているのです。聖餐式の感謝聖別の式文の中で、わたしたちは繰り返しこのことを祈り続けているのです。
もちろん、わたしたちが「一つである」ということは「一つの体」ということです。「一つ」というと、考え方や向く方向性などすべてが一致していなくてはいけないと考える人もいます。しかしそうではありません。「一つの体」にはいろいろな部分がありますし、それぞれ独立して活動しています。鼻と足は全く違う位置にあり、別々の働きをしています。耳と口は近くにありますがやっぱり別々の働きをしています。胃液は、自分自身を溶かしてしまうくらい強力なものですが、粘液を出すことによって溶かしてしまうことはありません。このようにバラバラでも様々なものが協力し合いながら「一つの体」として統一性を保っているのです。そしてなおかつ、それらの体を無理矢理分割しようとすれば「命」が失われてしまいます。「体」というのはそれぞればらばらのことをしているように見えながら「一つ」なのです。人間も同じように、一見ばらばらのことをしているように見えながら「一つ」なのです。今、教会がいろいろなことをしていてバラバラのように見えるかもしれませんが、むしろそれが普通であって、そこに「聖霊が注がれるように」祈ることの方が良いのかなとも思います。聖霊が注がれて完全に一つとなる、そこを目指して今日も歩みだしていきましょう。