わたしの邪魔をする
マタイによる福音書 16章21~27節
本日の福音書ではイエスが自分の死と復活を予告し、それに対してペトロがいさめる場面です。「そんなことがあってはなりません」というペトロに対してイエスは「サタン、引き下がれ」と叱りつけます。最後にイエスは「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と弟子たちに言います。
ペトロたちにとっては、イエスは無くてはならない人ですし、「自分は死ぬ」なんて言ってほしくないというのはよくわかります。自分が大切に思っている人が、明らかに「死」に向かうのなら、やはり止めたいと思うものです。「そのままさせておきましょう」という気持ちにはなかなかなれません。そうでなくても、例えばビルなどから飛び降りようとしている人に対して「思いとどまりなさい」「死なないでほしい」と止めたりしませんか。「やりたいんだから放っておけよ」というわけにはなかなかなりませんよね。どうしても、その進む道を「止める」という選択肢はなかなか出てこないものです。
人というのは日々成長していくものです。特に子どもたちはそうですね。人が成長するときって、試行錯誤して、失敗しながら進んでいくものです。時に子どもって、「明らかにそれは失敗するだろう」と思うようなことをやって、やっぱり失敗したりすることがあります。そういうのって止めたくなりますよね。「結果はわかってるだろう」って。「バカなことはするな」って言いたくなります。もちろん止めたほうがいい場面、例えば明らかに死んじゃう可能性が高い場合なんかはありますけれども、チャレンジできる場面なら、たとえ失敗するのがわかっていても、やってみる方がいいこともあります。例えば、まったく勉強しないで定期テストに臨んで100点が取れるでしょうか。まぁ明らかに取れませんよね。でも大体子どもって「勉強しろ」って言ってもしないもんです。無理やりやらすこともできなくはないのですが、あまり効果が無かったりします。むしろ一回、自分のやりたいようにやらせてみて、失敗を経験する方が、自分で選び取った道として、進んでいきやすいものです。
イエスにとって、ペトロは自分の進みたい方向、進むべき方向を邪魔する者です。「あなたは私の邪魔をする者」と言っている通りです。イエスに自殺願望があったわけではないのでしょうが、イエスは神に示された道を、十字架に向かう道をただ進んでいこうとしたのです。ペトロは信仰の土台となるべき「岩」でもあるのですが、道をふさぐ「岩」であり、躓かせて人の行く道を邪魔する「岩」となってしまいました。わたしたちにとって「信仰の岩」はとても大事ですが、かえってその「岩」がわたしたちの進むべき道を邪魔するものになってしまっているかもしれません。
もちろん、わたしたちにとって進む道が神から示されているかどうかはよくわからなかったりします。だからこそわたしたちは「神に聞く」つまり「祈り」「黙想する」のです。わたしたちの進む道を神さまに教えてもらうのです。世間的に見てそれが「失敗」の道だとしても、それが神さまに示された道なら、わたしたちは進みます。自分の十字架に向かって進むのです。その道は、みんな違いますが、わたしたちが自分の十字架への道を歩んでいることには変わりがありません。だからこそわたしたちは、誰かのつまずきの岩になるのではなく、その人が進む道を見出せるように祈ることが大切です、また、わたしたち自身も「主よ、進むべき道をお示しください」と祈りながら進む者でありたいと思います。祈り、黙想しながら、主の示された道を進んでいきましょう。